2007年5月17日木曜日

思いがけない言葉


十年以上前の話ですが、大学院に入学してすぐの頃でした。アメリカの中西部で大学院生並みの貧しい生活を送っていました。まだ結婚していなかったけれど、家内と付き合っており、彼女が私のぼろアパートに遊びに来ていました。

その日は何かごちそうが食べたかったので、二人で手巻き寿司を作ることにしました。その頃、大都会に行かない限り、日本食料品が殆ど手に入りませんでした。大型スーパーに行けば、ふにゃふにゃと湿ったのりとお酢位しか期待できません。でも私達はそんな状況に充分慣れていたので、何の不満もなく買い物に出かけました。

具には、玉子焼きとアボカドときゅうりしかなくて、この三つをビッグ・スリーとさえ表現していました。生で食べられる魚が無論なかったし、もしスーパーに置いてあるとしても、私達にはそんな予算はなかったのです。(それに私はその頃菜食主義を固守していました。)

しかし、その程度の手巻き寿司が普段食べていたスパゲッティやサンドイッチより随分豪華な食事でした。家内が具の用意をし、私は時々彼女の指導を受けながらご飯の味付けをしました。夏のやや 暑い日で、60年代の安物の食卓に向かった時、二人とも少し汗ばんでいました。

ゆっくりと食べました。何故かわさびもあったので、「きたっ!」と叫び、鼻を手で覆うことは時折ありました。家内は自由に色んな組み合わせをしていたけれど、私はアボカドときゅうり→きゅうりだけ→玉子焼きだけという循環を律儀に繰り返しました。とうとう、おなかがいっぱいになり、二人とも動けないまま座っていました。胃袋が裂けそうな時の独特な沈黙が暫く続きました。

その時でした。家内が何気なく「お尻に根っこが生えたぁ」と発言しました。

当時、私は「生える」という動詞も「根っこ」という名詞も知りませんでした。しかし、発音の近い単語は幾つか知っていたので、家内の言葉を聞き間違えてしまったのです。私の頭の中に、

お尻に猫が入った

お尻に猫が入った

お尻に猫が入った   

という言葉が響いたのです。すさまじいスピードで知っている単語を頭の中でチェックしてみたけれど、他の意味を見つけることが出来ませんでした。

驚きの余り何も言えませんでした。暫く混乱した挙句、「で、でも、猫なんか飼っていないよ」と呟いたのです。

私の誤解を解くのに数分かかりました。

日本語の勉強を始めてから、話し相手の言葉を聞き間違えることが無数にあったのですが、この思いがけない猫だけは一生忘れられないのでしょう。

3 件のコメント:

soshu さんのコメント...

とぼとぼさん

日本に司馬遼太郎(しば りょうたろう)という歴史小説の大家がおられました。

日本人はこの人の小説が好きで、今や司馬遼太郎さんの小説は、日本のサラリーマンの共通言語と言ってもいいくらいです。

この人が言葉について面白い随筆を書いておられます。

モンゴルのウランバートルで、司馬さんの奥さんが水をもらいにいこうと、モンゴル語を専攻していた司馬さんに水とはモンゴル語でどのような言葉で言えばよいのか?

と問いましたら、司馬さんが余計なことを考えて、最近はモンゴルの人も炭酸水を飲んでいるので、「ホジル・ウス」と言えばいいのではないかとアドバイスしますと、モンゴルの人たちが白い炭酸の結晶が露出している場所、すなわちゴビ砂漠(=土地)を買いにきたのではないかと思って、大騒ぎになったそうです。

たまりかねた奥さんが日本語で「ミズ!」と叫びますと、いっぺんで通じたそうです。

生命にかかわる言葉は何国語でも世界に通じると言われています。司馬さんは、彼女は言語心理上の理論を実証してくれた、と書いています。

なんとなく、とぼとぼさんの「お尻に猫が入った」という聞き間違いと共通するような逸話であったため、紹介させていただきます。

soshu さんのコメント...
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とぼ さんのコメント...

爽秋さん

面白い話ありがとうございます。

そういう「心からの一言」が本当に通じるようですね。

数年前に、アメリカ人と日本人の夫婦に出会いましたが、奥さんの話によると、アメリカ人の旦那さんは日本語が何も分からなくて、言葉が通じない時が多かったそうです。

ただ、夕飯の後日本語で「食器洗って~」と叫んだ時には、何故かその意味が通じた、と彼女が言っていました。

食器洗いは生命にかかわる言葉かどうかは分かりませんが。

それでは、ご訪問ありがとうございました。是非また遊びにいらっしゃってください。