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2008年5月22日木曜日

一人ポンチ

先週末から、家内は娘を連れて日本の実家へ行っています。七五三の写真撮影が第一の目的ですが、親戚と遊んだり、美味しいものを食べたりできるので、旅人の二人は大喜びではしゃいでいます。

家内が里帰りする度に、私は一緒にお邪魔することが多いけれども、今回は家に残ることになりました。もちろん、行きたいは行きたいのだが、つい去年日本に行ってきましたし、娘は片親と二人で旅行できる歳になっているので、一人分の旅費を節約しようと決めました。

それで、二週間の間、私は一人ポンチになるわけです。いや、分かっていますよ。「一人ポンチ」は正確な日本語ではありませんね。普段「一人ぼっち」あるいは、「一人ぽっち」と言いますが、家内の実家では「一人ポンチ」というバリエーションが発明され、一時的にみんなの間で流行っていました。

「あら、君がいたか。何してんの?」
「読書だよ。一人ポンチだもん」

という調子で使う表現です。ポンチは英語のpunchという意味で使っているので、ボクサーのように空中を素早くパンチする仕草を付け加えるのがポイントです。

家内の実家で一人ポンチブームがとっくに終わりましたが、未だに私が自然に口にするのは一人ぽっちではなく、一人ポンチなのです。人前でうっかり使って大恥をかいたこともあります。

ともかく、一人ポンチの二週間、どうしようかな、と悩んでいるところです。

中年男が独身状態に戻ると、どんなことをするのでしょう。いろいろなイメージがつきますよね。一つは、野蛮化です。掃除をせず、ヒゲさえ剃らず、原始人らしくパンツ一丁で家の中を歩き回り、牛乳をコップに入ないでカートンから直接ゴクゴク飲む、という暮らしぶりです。

この野蛮スタイルの魅力を感じないでもないのですが、玄関のドアには大きな窓があるので、パンツ姿で歩き回るのは止めた方がよさそうです。それに牛乳をめったに飲みません。紅茶なら毎日飲みますが、ティーポットから直接という飲み方は、危険だけではなく、雰囲気をすっかり壊してしまうのでしょう。野蛮化するのに紅茶を捨てなきゃいけないのなら、ごめんです。

しかし、正反対のイメージはどうなのでしょう。文明を捨てないで、むしろ遊びまくることです。毎晩飲みに行き、夜明けごろに足を引きずって帰宅。ふむ、これも合わないよな、としか思えません。残念ながら、私は派手な遊びの似合わない人間なのです。例えば、高級バーにラマを連れて行ったら、どうですか。ラマは立派な動物であり、高級バーも価値のある場所ですが、その二つを組み合わせるとどうも違和感を感じるでしょう。私はラマではないけれど、高級バーに入るとラマ・レベルの違和感を覚えてしまいます。

しかたなく、仕事と原稿作成に集中しようか、という苦い結論にたどり着きました。そういえば、物置の整理も待っています。

やはり、この二週間を利用して、仕事と掃除をしましょう。無論、一人ポンチという仕草を時々しながら。

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直した原稿


先週末から、家内は娘を連れて日本の実家へ行っています。七五三の写真撮影が第一の目的ですが、親戚と遊んだり、美味しいものを食べたりできるので、旅人の二人は大喜びではしゃいでいます。

家内が里帰りする度に、私も一緒に付いて行くことが多いのですが、今回は家に残ることになりました。もちろん、行きたいは行きたいですが、去年も日本に行ってきましたし、娘はと二人で旅行できる歳になっているので、一人分の旅費を節約しようと決めました。

それで、二週間の間、私は一人ポンチになるわけです。いや、分かっていますよ。「一人ポンチ」は正確な日本語ではありませんね。普通「一人ぼっち」あるいは、「一人ぽっち」と言いますが、家内の実家では「一人ポンチ」というバリエーションが発明され、一時的にみんなの間で流行っていました。

「あら、君がいたか。何してんの?」
「読書だよ。一人ポンチだもん」

という調子で使う表現ですが、空中を素早くポンチする仕草を付け加えるのがポイントです。

家内の実家で一人ポンチブームがとっくに終わりましたが、未だに私が自然に口にするのは一人ぽっちではなく、一人ポンチなのです。人前でうっかり使って大恥をかいたこともあります。

ともかく、一人ポンチの二週間、どうしようかな、と悩んでいるところです。

中年男が独身状態に戻ると、どんなことをするのでしょう。いろいろなイメージが浮かびますよね。一つは、野蛮化です。掃除をせず、ヒゲさえ剃らず、原始人らしくパンツ一丁で家の中を歩き回り、牛乳をコップに入ないでカートンから直接ゴクゴク飲む、という暮らしぶりです。

この野蛮スタイルの魅力を感じないでもないのですが、玄関のドアには大きな窓があるので、パンツ姿で歩き回るのは止めた方がよさそうです。それに牛乳をめったに飲みません。紅茶なら毎日飲みますが、ティーポットから直接という飲み方は、危険だけではなく、雰囲気をすっかり壊してしまうでしょう。野蛮化するのに紅茶を捨てなきゃいけないのなら、ごめんです。

しかし、正反対のイメージどうでしょう。文明を捨てないで、むしろ遊びまくることです。毎晩飲みに行き、夜明けごろに足を引きずって帰宅。ふむ、これも合わないよな、としか思えません。残念ながら、私は派手な遊びの似合わない人間なのです。例えば、高級バーにラマを連れて行ったら、どうでしょう。ラマは立派な動物であり、高級バーも価値のある場所ですが違和感を感じるでしょう。私はラマではないけれど、高級バーに入るとラマ・レベルの場違いなのです

しかたなく、仕事と原稿作成に集中しようか、という苦しい結論にたどり着きました。そういえば、物置の整理も私を待っています。

やはり、この二週間を利用して、仕事と掃除をしましょう。無論、一人ポンチという仕草を時々しながら。

2008年2月25日月曜日

蟻に襲われています。

毎年、二月になると、私のオフィスに蟻が現れるようになります。この地域に紅火蟻(アカヒアリ)という実に危険な種類も最近侵入してきていますが、オフィスにやってくるのは、ごく普通の小さくて茶色い蟻です。このチビ外来者は人間を刺さないけれど、いろいろなところで這い回り、人の邪魔をしょっちゅうしています。

今年の冬は暖かい方で、蟻の襲撃は例年の何倍か、という凄まじい規模まで拡大しています。拡大しているといっても、それはいっぺんで大量で出てくるのではなく、一匹ずつ次から次へ、とどこかから現れるのです。言わば、ビルの地下に蟻の無尽蔵があるような感じです。私は虫と接触することが特に嫌だと思わないが、机上や電話やキーボードを這う蟻どもを眺めていると、「君たち、これはちょっとやりすぎじゃないか?」と思わずにいられなくなります。実際に声をかけてみたりしていますが、彼らは一切返事してくれません。

蟻の侵入でこれという不自由はないけれども、誰かと会話していて、蟻が自分の手を歩いていることに気づくと、どうすればいいのかがよく解りません。こういう場合は、「あ、また蟻ですねぇ」と微笑みながらそっと払い落としても礼儀違反なのでしょうか。それとも、どこまで這っても、蟻の存在を認めないのが正解かもしれないが、蟻は顔の辺りに近付いてくれば、この無視ポリシーを貫くのは難しそうです。

蟻に関する行儀はどうであれ、私のマグカップを立ち入り禁止ゾーンにしたいですね。

2007年6月1日金曜日

驚きの発言

この間小さなパーティーに行ってきました。出席者ば皆英語ができるけれど、その大半は中国語か日本語のネイティブスピーカーで、その三つを流暢に喋れる人もいました。(言っておきますが、私はその有能者グループの会員ではありません。私の外国語レパートリーは日本語でおしまいなのです)。

とにかく、美味しい物を食べ、いっぱい楽しんできましたが、いろいろな言語がいろいろな組み合わせで飛び交う中、日本語の会話もできてよかったです。

私の話す日本語は大体通じますが、発音が狂ってしまい、誤解を起こす事もあります。そして、このパーティーの日もそうでした。ある人と会話をしていると、このブログで紹介したある話題を持ち出しました。

「実はね、国際翻訳コンクールに応募しましたが。」

「へぇ~、そうですか。こんにゃくコンクールってのが存在するのかぁ・・・しかも国際のが!」

発音に気をつけながら改めて言ってみたら、会話は翻訳の方に進んでいきましたが、「こんにゃくコンクール」という言葉が面白くて忘れられませんでした。

考えてみると、こんにゃくの価値が見落とされているような気がします。確かに見た目は地味でこれという味はしませんが、その分幅広く鍋物にも煮物にも炒め物にも使える、和食に不可欠で基本的な食材なのです。こんにゃくのおとなしい性格を褒めるべきなのではありませんか。

しかし、こんやくコンクールは具体的にどんな風に行えばいいのでしょうか。こんにゃくを主張する料理を評価することは勿論出来ますが、こんにゃくの精神を表すオブジェを募集するコンクールにも説得力を感じます。「こんにゃくと四季」や「こんにゃくの勇ましい心」等とテーマを決め、材料をこんにゃくと爪楊枝に限れば、応募者はとても創造的なチャレンジを与えられるのでしょう。

外国語を習っていると、間違えることが日常の一部なのです。それを充分承知しているので、私は間違える度に、特に恥ずかしい思いをしません。ところが、この日のはっきりしない発音から、こんな風に笑えるアイディアが生じたのです。

2007年5月17日木曜日

思いがけない言葉


十年以上前の話ですが、大学院に入学してすぐの頃でした。アメリカの中西部で大学院生並みの貧しい生活を送っていました。まだ結婚していなかったけれど、家内と付き合っており、彼女が私のぼろアパートに遊びに来ていました。

その日は何かごちそうが食べたかったので、二人で手巻き寿司を作ることにしました。その頃、大都会に行かない限り、日本食料品が殆ど手に入りませんでした。大型スーパーに行けば、ふにゃふにゃと湿ったのりとお酢位しか期待できません。でも私達はそんな状況に充分慣れていたので、何の不満もなく買い物に出かけました。

具には、玉子焼きとアボカドときゅうりしかなくて、この三つをビッグ・スリーとさえ表現していました。生で食べられる魚が無論なかったし、もしスーパーに置いてあるとしても、私達にはそんな予算はなかったのです。(それに私はその頃菜食主義を固守していました。)

しかし、その程度の手巻き寿司が普段食べていたスパゲッティやサンドイッチより随分豪華な食事でした。家内が具の用意をし、私は時々彼女の指導を受けながらご飯の味付けをしました。夏のやや 暑い日で、60年代の安物の食卓に向かった時、二人とも少し汗ばんでいました。

ゆっくりと食べました。何故かわさびもあったので、「きたっ!」と叫び、鼻を手で覆うことは時折ありました。家内は自由に色んな組み合わせをしていたけれど、私はアボカドときゅうり→きゅうりだけ→玉子焼きだけという循環を律儀に繰り返しました。とうとう、おなかがいっぱいになり、二人とも動けないまま座っていました。胃袋が裂けそうな時の独特な沈黙が暫く続きました。

その時でした。家内が何気なく「お尻に根っこが生えたぁ」と発言しました。

当時、私は「生える」という動詞も「根っこ」という名詞も知りませんでした。しかし、発音の近い単語は幾つか知っていたので、家内の言葉を聞き間違えてしまったのです。私の頭の中に、

お尻に猫が入った

お尻に猫が入った

お尻に猫が入った   

という言葉が響いたのです。すさまじいスピードで知っている単語を頭の中でチェックしてみたけれど、他の意味を見つけることが出来ませんでした。

驚きの余り何も言えませんでした。暫く混乱した挙句、「で、でも、猫なんか飼っていないよ」と呟いたのです。

私の誤解を解くのに数分かかりました。

日本語の勉強を始めてから、話し相手の言葉を聞き間違えることが無数にあったのですが、この思いがけない猫だけは一生忘れられないのでしょう。

2007年5月16日水曜日

経験的学習

語学もフルーツパイも人間の存在意義を高めるような貴重な文明現象である。強いて言えば、その二つの一つがなかったとしたら、世の中がはるかに暗くなってしまうのであろう。この事実は多くの人間に認められているのだが、語学とフルーツパイには何か関係があるのか、という点はまだ疑問のままである。

ところが、その可能性は充分考えられる。フルーツパイを焼く際、語彙を少し入れておけば、フルーツの酸に普遍文法が溶けられ、言葉が、このパソコンの回路を巡っている電子の如く、自由に言語から言語へと移るだろうという推測がつくのである。

スーパーのフルーツ売り場でそんなことをぼんやりと考えていたら、実験を行うことにしました。イチゴとルバーブとパイ生地をさっさと買い、家に帰りました。 パイの用意ができたら、語彙を上のパイ皮の穴から入れ、オーブンに放り込んだのです。

夕飯の後、一切れ食べてみたけれど、まだこれという効果は感じていませんが、諦めるには早いと思います。例え、単語がたったイチゴ増えるだけでも、満足できます。

ところで、この語彙吸収法は、紅茶を一緒に飲んだ方がより効果的に思えるのですが、コーヒー派の方には選択の自由があります。

2007年5月10日木曜日

「ちょっとお聞きしたいんですが・・・」

大学の頃、半年間日本に留学してきましたが、それ以来はアメリカ在住で、日本に行くのは、一年おきに家内の実家を訪れるというパターンになっています。ですから、日本語について何か聞きたいことができると、聞き手の候補者は家内だけです。これは、家内にとって、とんでもない災難なのです。例えば、

(家内は夕飯のおかずをジャージャー炒めている最中)

「あのね、ちょっと聞いていいかな。」

(家内は興味深そうに炒め物を見つめる)「・・・・・・」

「本を読んでいて、気づいたんだけれど、「直ちに」と「即座に」の違いがよく分からないみたい。その二つはどう整理すればいいのかな・・・」

「・・・・・・・」

或いは、

(家内はテレビを見ている。私はその傍で読書。)

「ね、この漢字はなんって読むんだっけ?」

「ん?」(まだテレビを観ている)

「この漢字、読みは?」

「あ、漢字か、それは「くじら」と読むよ。」

「なんだ、くじらかぁ。そういえば、Moby Dickの日本語版だから、文脈から分かるべきだったな、そりゃ。」

「・・・・・・」

(5分後)「ね、この漢字は何と読む?」

「ん?」(家内の視線がテレビから離れない)

「漢字だよ!か・ん・じ!」

(家内の目はちらっと私の差し出すページに移る。「あ、それは又「くじら」だよ。」

「・・・・・・」

我が家では、こういう芝居が何度も繰り返されているので、家内の「知りたがる夫恐怖症」はどんなものなのか、容易に想像がつくでしょう。そうして私も家内に影響されて、「日本人は質問されたくない」というイメージを無意識に覚えてしまったのです。

それで、久しぶりに日本に行くと、必ず「うゎ~、日本人がいっぱいいるっ!さすが日本だな!どんな質問でも、答えてもらえそう・・・もしかして、絶叫すれば、僕の声が届く範囲以内に国語の先生さえいるかもしれん」というような単純なことを考えてしまうのですが、いざという時に、やはり聞きにくくて遠慮してしまいます。

したがって、この方の経験について読ませていただき、「そっか、迷惑にならない場合もあるんだ」とありがたく思いました。もし家内が彼の傍に座っていたら、話が別だったかもしれません。(というより、キュートな彼だったなら、喜んで質問に答えていたのでしょう。)とにかく、こういう日本語救急依頼の難点は、質問されてもいい方も、質問されたくない方も同じように見えてしまうということが明らかになりました。

この問題を改善するのは簡単なことでしょう。我々外国人でもわかるような合図で、質問を受けてくれる日本人の方々を示せば良いのであろう。方法はいくらでもあるのだが、各電車に、一台の客車を「質問ゾーン」に指定するのが最適に思えます。この質問ゾーンは無論、我々外国人も認めなくてはならないのだから、質問車に乗る日本人は、「質問されるかも」と覚悟できるでけではなく、逆に色々な外国語について質問する機会を得る訳です。(これで別の問題が生じるのですが、質問車に乗っている間、外国人が自分達の母国の国歌を静かに歌え続ければ分かりやすくなると思います。)

質問車の外側に、巨大なクェスチョンマークを沢山貼り付ければ、乗客の皆様が間違わないし、何だか楽しい雰囲気が醸し出されるのでしょう。わくわくしません?今日、質問車に乗ってみよう―か―なっ!と通勤時間がオモシロクなってくるのでしょう。

この提案を国土交通省に提出したいのですが、手順がよくわかりません。それでね、読者様、ちょっとお聞きしたいのですが・・・