チビの部屋がひどく散らかっています。どういう風に散らかっているかといいますと、本におもちゃ、まだきれいな洋服に汚れた洋服、鉛筆にビー玉、という感じで、そのど真ん中に逆様になっている洗濯籠がお人形のお茶会のテーブルになっています。つまり、「この部屋には床があるのか」という状態です。自分からなかなか片付けようとしないチビに、「パパが手伝うから今日こそ部屋の掃除をしよう」と誘ってみました。しかし、この作戦が全然効きませんでした。
ほら、チビがこっちを向きません。「いいよ、パパ。別に片付けなくたって平気だよ。」
「パパとママは平気じゃないよ。歩けないほど散らかっているよ。」
「それは大丈夫。私なら歩けるよ。」
「でもね、このままだと寝る時におやすみを言いに来れないよ。それでもいいのかい?」
「ふん、そうか。じゃ、通路を作ってあげる。」
「・・・・・・」
「じゃ、Lちゃんの家に遊びに行くのね。」
「ち、ちょっと待てよ。やっぱり片付けようよ。」
討論に勝てなかった私には、「やりなさい」という言葉、即ち親の究極兵器を持ち出すしかありませんでした。しかし、渋々と片付け始めるチビが努力しません。本を拾っても、ぱらぱらとページをめくるだけです。何回か注意したけれど、チビの動きが少しも早まってきません。このままだと、私が全部やってしまいそうなのです。つまり、チビの勝利。これはいけません。
「じゃ、暫く自分でやってみて。片付いたら遊びに行ってもいいよ」と私は何気なく言い捨てて、部屋を出ます。
隣の部屋でメールチェックしていると、物音は全くしません。ちょっと不気味になってくるくらいです。しかし、数分後、
「パパ、ちょっと昼寝していい?」と聞いてくるのです。赤ちゃんの頃にも昼寝を殆どしなかったチビにしては高いレベルの抵抗です。
「昼寝? ま、いいよ。疲れているならしょうがないね。」
チビがもぞもぞと毛布の下に潜り込み、部屋が又静まり返ります。
沈黙が二分、三分流れていきます。まさか、本当に寝るとは・・・。
「パパ、おなかがへんだよ~」
やっぱり。
様子を見にいくと、全然苦しくなさそうなチビが毛布に絡まっています。「おなかが痛い」はチビの最後の戦略でした。この程度の抵抗力をつい尊敬してしまいます。でも、チビの茶色い目は今私の顔を探しています。
何よりも、チビは一人でいることが嫌なのです。こんなベッタリチビには兄弟がいないことが申し訳なく感じてしまいます。
暫くおでこを撫でてもらったら、チビがほっとしたみたいです。今のうちに動き出さなくちゃ。
「どう?二人で片付けない?」
「うん、二人でやろう、パパ。」
部屋が片付いてくると、チビが突然「片付けるって楽しいね」と言い出すのです。それは彼女の今の気持ちですけれど、何度も演じてきたこの劇がこれからも何度も演じられるのでしょう。
いつか、チビが「一人でもいいから片付けない」と決める日がくるかもしれません。
又は、自分から部屋の掃除をしたくなる日がくるかもしれません。
いろいろな可能性がこもった将来が訪れるまでは、こういう部屋掃除討論を大切にしましょう。
2 件のコメント:
とぼとぼさん
貴兄のブログ、非常に面白いです。
特に印象に残ったのは、教科書をキレイに使わなければならないというアメリカの慣習です。
日本にはこういった発想がありません。むしろ、汚くなったほうがよく勉強している証拠とされます。
さて、下文ですが、私流に変換させていただきました。
と言いますのも、私は日本人ですが、感覚的にこうかいたらいいのではないかと提示できるだけで、文法的にこうしたらいい、という能力が欠如しているからです(改悪になっているかもしれません)
チビの部屋がひどく散らかっています。
どういう風に散らかっているかといいますと、本におもちゃにまだきれいな洋服に汚れた洋服、鉛筆にビー玉、逆さまになったお人形、洗濯籠がお茶会のテーブルという役割を果たしている、という感じです。
つまり、「この部屋に床があるのか」という状態です。
こんな感じでしょうか。あまり変えるところのない見事な日本語をお書きになっていると思います。
soshuさん、こんばんは。いつもお世話になっています。
そうですね。教科書を汚してはいけないという気持ちは教育に逆効果を及ぼすかもしれません。一般的にいうと、アメリカ人は日本人ほど本を大切にしていないものですね。
僕の文章を助けていただき、本当に嬉しいです。ありがとうございます。
「~に~に~に」という連続で部屋のごちゃごちゃ度を表したかったのですが、soshuさんのバージョンを読むと、なるほど、その連続の中に似た物をつないでリズムを作れば、読みやすくなってくる上、その部屋の描写もはっきりしてきますね。そして、元々の文の不明なところにも気づきました。
改めて表現すると、
どういう風に散らかっているかといいますと、本におもちゃ、まだきれいな洋服に汚れた洋服、鉛筆にビー玉、という感じで、そのど真ん中に逆様になっている洗濯籠がお人形のお茶会のテーブルになっています。
このバージョンの新しい部分に新しいミスをおかしているかもしれませんが、最初から目指していたイメージは、やっと読者が想像できるのではないか、と思います。
ほっとしました。ありがとうございました。この新しい文を暫定的にブログに入れますが、もしよろしければ、これも調整してください。
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