
この間、遠い所へ引っ越す知人に沢山のもらい物をしてきました。ある小さめな収納棚を安く売ってくれることになっており、それを取りに行っていたのです。引越しの直前でアパートの中に段ボール箱やきれいに整理された家庭用品があっちこっちに置いてあります。そして、例の棚を車に積み込み、最後の挨拶を述べようとした時に、思いがけない攻撃を受けてしまいました。
「これもど~ぞ!」
「じゃねぇ、これも要らない?」
「これが余っているので、おまけにしてあげる・・・」
と誠にタクサンの物をくれました。種類は様々です。食料品(新品も使いかけ)、チビのフラフープ、小さなプラスチック製の収納棚、風鈴、等と山ほどもらってしまいました。
こういう時は、家内は遠慮しがちですが、私は大抵受けることにします。私達は夫婦として性格的に共通点が多い方だと思いますが、これが数少ない相違点の一つなのでしょう。
とは言えても、家内の気持ちがわからない訳でもありません。他人が引っ越す際に要らないと判断する物は、家には必要だと思えないものです。もらってしまえば、家も今度引っ越す時に、誰かに押し付けなくてはいけない羽目になってしまうのです。もし、実際に使えそうな物があれば、それだけをもらい、その他はお断りしましょう。この考え方は理屈がちゃんっと通っていることは私も承知します。
しかし、いくら引っ越しは冷静に考えるべきだとは言え、いざという時に引っ越す本人もその周りの仲間も様々な感情に引っ張られてしまうのです。引っ越す人は人生の次章を迎える喜びが主でしょうが、さようならという苦い言葉もあるし、「このアパーとに溜まってきたガラクタをどうにか処分しなくちゃ!」という慌しい現実も迫ってきます。引っ越しは肉体的にも疲れますが、精神的にもぐったりするのはこのせいなのでしょう。
今日の本人も何だかハイな感じで自分のアパートを素早く飛び回っていました。 そのハイ感と処分の必要感が一緒になっているらしく、これも、これも、是非こ~れも、と促してくるのです。大きすぎて家に置く場所がない物は仕方なく断りましたが、それ以外は受けてしまったのです。こういう時は「僕にとってこれはガラクタに過ぎない」という雰囲気を起こしてはいけないような気がします。本人は自分の物を処分しなくてはいけないのですが、「価値のない物」としてゴミ箱に放り込むことが切な過ぎる。最後まで、誰か受けてくれる使い手を捜してしまうのです。その人に自分の「価値のある物」を与える方が精神的に楽なのです。
相手のそういう精神的要求に応えたいところもありますが、私はそんなに単純に優しいことばかり考える人間ではありません。正直にいうと、私は「ただ」という言葉に非常に弱いのです。
(考えてみると、遺伝子が関わっているかもしれません。私の家族は昔スコットランドから北米に渡ってきたのですが、現在でも、スコットランドという国名を「Scotch」という形容詞に変えると、「けち」という意味にもなります。)
とにかく、引っ越す本人も興奮してしまい、私も興奮してしまい、家内が悪い物でも食べたような表情になり、車が荷物でいっぱいになりました。
家に帰ると、車から引っ張り出して置く場所を決めることは一仕事でした。そして、プラスチック製の収納棚をよく見ると、なんとホコリがいっぱいついています。ホコリの溜まり方は家庭によって違うだろうけれど、私の目には三年分ぐらいは溜まっています。石の上にも三年は大変良いことだそうですが、プラスチック棚の上にも三年分のホコリは望ましくない発見でした。
そして、この棚の周りにはプラスチック格子が付いているので、その穴を一つ一つ拭かなくてはならないのです。三十分前に目を星にして「この人が処分したがっているから、もらった方が実は優しいんだ」と考えていた自分がいやになってしまうのです。
時間をかけて棚を丁寧に拭いていると、少し気を取り直しました。この棚は机の側に置けば、今までごた混ぜになっていた鉛筆や書類を整理してくれそうなので、もらってよかったと改めて思えました。三年後にホコリが溜まっていないように、毎日使いましょう。
「これもど~ぞ!」
「じゃねぇ、これも要らない?」
「これが余っているので、おまけにしてあげる・・・」
と誠にタクサンの物をくれました。種類は様々です。食料品(新品も使いかけ)、チビのフラフープ、小さなプラスチック製の収納棚、風鈴、等と山ほどもらってしまいました。
こういう時は、家内は遠慮しがちですが、私は大抵受けることにします。私達は夫婦として性格的に共通点が多い方だと思いますが、これが数少ない相違点の一つなのでしょう。
とは言えても、家内の気持ちがわからない訳でもありません。他人が引っ越す際に要らないと判断する物は、家には必要だと思えないものです。もらってしまえば、家も今度引っ越す時に、誰かに押し付けなくてはいけない羽目になってしまうのです。もし、実際に使えそうな物があれば、それだけをもらい、その他はお断りしましょう。この考え方は理屈がちゃんっと通っていることは私も承知します。
しかし、いくら引っ越しは冷静に考えるべきだとは言え、いざという時に引っ越す本人もその周りの仲間も様々な感情に引っ張られてしまうのです。引っ越す人は人生の次章を迎える喜びが主でしょうが、さようならという苦い言葉もあるし、「このアパーとに溜まってきたガラクタをどうにか処分しなくちゃ!」という慌しい現実も迫ってきます。引っ越しは肉体的にも疲れますが、精神的にもぐったりするのはこのせいなのでしょう。
今日の本人も何だかハイな感じで自分のアパートを素早く飛び回っていました。 そのハイ感と処分の必要感が一緒になっているらしく、これも、これも、是非こ~れも、と促してくるのです。大きすぎて家に置く場所がない物は仕方なく断りましたが、それ以外は受けてしまったのです。こういう時は「僕にとってこれはガラクタに過ぎない」という雰囲気を起こしてはいけないような気がします。本人は自分の物を処分しなくてはいけないのですが、「価値のない物」としてゴミ箱に放り込むことが切な過ぎる。最後まで、誰か受けてくれる使い手を捜してしまうのです。その人に自分の「価値のある物」を与える方が精神的に楽なのです。
相手のそういう精神的要求に応えたいところもありますが、私はそんなに単純に優しいことばかり考える人間ではありません。正直にいうと、私は「ただ」という言葉に非常に弱いのです。
(考えてみると、遺伝子が関わっているかもしれません。私の家族は昔スコットランドから北米に渡ってきたのですが、現在でも、スコットランドという国名を「Scotch」という形容詞に変えると、「けち」という意味にもなります。)
とにかく、引っ越す本人も興奮してしまい、私も興奮してしまい、家内が悪い物でも食べたような表情になり、車が荷物でいっぱいになりました。
家に帰ると、車から引っ張り出して置く場所を決めることは一仕事でした。そして、プラスチック製の収納棚をよく見ると、なんとホコリがいっぱいついています。ホコリの溜まり方は家庭によって違うだろうけれど、私の目には三年分ぐらいは溜まっています。石の上にも三年は大変良いことだそうですが、プラスチック棚の上にも三年分のホコリは望ましくない発見でした。
そして、この棚の周りにはプラスチック格子が付いているので、その穴を一つ一つ拭かなくてはならないのです。三十分前に目を星にして「この人が処分したがっているから、もらった方が実は優しいんだ」と考えていた自分がいやになってしまうのです。
時間をかけて棚を丁寧に拭いていると、少し気を取り直しました。この棚は机の側に置けば、今までごた混ぜになっていた鉛筆や書類を整理してくれそうなので、もらってよかったと改めて思えました。三年後にホコリが溜まっていないように、毎日使いましょう。