米国滞在の一年間でいろいろな課題にぶつかりました。アメリカ人の運転マナーの酷さから人間関係のあり方の違いまで、よく考えさせられました。場合によってアメリカってオープンでいい国だなと思ったり、あるいは日本人のしとやかさはやっぱりいいよなと考え直したりしました。最初に来日を検討して迷っていたころと同様に、国に優劣をつけることは難しいのだと実感しました。
でも。和食がいいです。終止符。
アメリカの日本料理屋は行ってみたけれど、一軒のお店以外は惨敗でした。へんてこりんな巻き寿司や油まみれでフニャフニャの天ぷらがほとんどでした。
自分で調理しようと思いアジア系のスーパーにも行ってみました。アジア各国の食料品がずらっと並び、何時間も面白く過ごせる立派なスーパーはあったけれど、そこにあった日本の食料品は調味料ぐらいでした。出汁とみりんが手に入っても、美味しい魚がなければ何も始まりません。切り干し大根やひじきの煮物だけで一年間過ごせる訳ではないのです。
あるとき、高級スーパーで刺身グレードのマグロを買ってきました。魚売りのおじさんはニコニコしていて、魚の味にどれだけ気をつけているかを自慢そうに語ってくれました。僕たちは舞い上がりさっそく買ってきたのですが、一口目で家内と目が合いました。不味すぎて喉を通りません。それ以後は日本料理を諦めました。
だから先週日本に帰った時から、待望の和食が解禁となりました。伊丹空港は最近立派に改装され、美味しいレストランがたくさんできました。日本到着後の最初の食事はそこの蕎麦屋でした。天ざるにしたら蕎麦はコシが程よく、天ぷらはサクッとしていて上品な食感でした。長い旅の後だったからこそ、心が和むような味でした。
でも刺身好きの僕が最も感動したのは、月曜日に地元スーパーで買ってきたカツオでした。数分前までは海で泳いでいただろうと思うような新鮮さ。口に入れるだけで溶けるような柔らかさ。絶妙な味。カツオ君と再会できて本当に良かったです。
2019年9月3日火曜日
日本の湿気、恐るべし
一年間をアメリカで過ごした僕は、びっくりするほど日本のことを忘れました。
バスの路線も家庭ゴミを出す日も綺麗に忘れてしまいました。
また、不在の一年にいろいろな変化がありました。
大好きなカフェが閉店したことを発見し、仕方なく訪れたマックでなんと注文したものをテーブルまで運んでもらいました。マックのテーブルサービスはどうでもいいことですが、閉店となったカフェの独創的な「旅する定食」がもう食べられないのはちょっとした打撃です。北欧風のシナモンロールも良かったなぁと感傷的になるくらい素敵なお店でした。
このように思いがけぬ変化はありましたが、関西の夏が蒸し暑いことには変化はなかったようです。永遠に変わらないことだろうと思います。
クーラー王国のアメリカに慣れていた僕は伊丹空港から出るなり、凄まじい湿気に襲われました。大げさな表現かもしれませんが、湿気に攻撃性が感じられます。
帰宅してクーラーをかけても、何だか物足りません。お店に行っても同じです。
電車に弱冷房車があるように、日本は弱冷房国だと言えるかもしれません。
だからと言ってアメリカが良くて日本が良くないという訳ではありません。問題はむしろアメリカで自然の空気を吸わなくなった僕にあるのでしょう。
自分のクーラー依存症を認めます。でも秋が待ち遠しいです。
写真は2年前に六甲山で撮ったものです。夏の湿気から逃げたい人にお勧めの場所です。
バスの路線も家庭ゴミを出す日も綺麗に忘れてしまいました。
また、不在の一年にいろいろな変化がありました。
大好きなカフェが閉店したことを発見し、仕方なく訪れたマックでなんと注文したものをテーブルまで運んでもらいました。マックのテーブルサービスはどうでもいいことですが、閉店となったカフェの独創的な「旅する定食」がもう食べられないのはちょっとした打撃です。北欧風のシナモンロールも良かったなぁと感傷的になるくらい素敵なお店でした。
このように思いがけぬ変化はありましたが、関西の夏が蒸し暑いことには変化はなかったようです。永遠に変わらないことだろうと思います。
クーラー王国のアメリカに慣れていた僕は伊丹空港から出るなり、凄まじい湿気に襲われました。大げさな表現かもしれませんが、湿気に攻撃性が感じられます。
帰宅してクーラーをかけても、何だか物足りません。お店に行っても同じです。
電車に弱冷房車があるように、日本は弱冷房国だと言えるかもしれません。
だからと言ってアメリカが良くて日本が良くないという訳ではありません。問題はむしろアメリカで自然の空気を吸わなくなった僕にあるのでしょう。
自分のクーラー依存症を認めます。でも秋が待ち遠しいです。
写真は2年前に六甲山で撮ったものです。夏の湿気から逃げたい人にお勧めの場所です。
2019年9月1日日曜日
再び来日
この間の投稿に、来日したという話をしました。
実は先週の木曜日に再び来日しました。
仕事の都合で去年の8月から一年間アメリカで過ごすことになりました。
その間、家族にいろんなことがあり、少しは大変でしたが、だからこそ家族の近くに居ることができて良かったです。
でも一年があっという間に経ってしまい、木曜日に日本に戻り(帰り?)ました。
最初の日、一年ぶりの日本は何だかアンリアルな感じがしました。
ゴミの分別やバスに乗ることなど、初めてやっている気がして不思議でした。
でもそのうち、脳の奥深くで小さなスイッチが日本モード切り替えったようです。
今、アメリカで過ごした時間の方が夢っぽくて少しアンリアルに感じられます。どちらの国にいても、浦島太郎になるしかないようです。
写真はアメリカで出会ったヤギです。人懐っこくて可愛いいけれど、僕のTシャツの袖を食べようとしました。
実は先週の木曜日に再び来日しました。
仕事の都合で去年の8月から一年間アメリカで過ごすことになりました。
その間、家族にいろんなことがあり、少しは大変でしたが、だからこそ家族の近くに居ることができて良かったです。
でも一年があっという間に経ってしまい、木曜日に日本に戻り(帰り?)ました。
最初の日、一年ぶりの日本は何だかアンリアルな感じがしました。
ゴミの分別やバスに乗ることなど、初めてやっている気がして不思議でした。
でもそのうち、脳の奥深くで小さなスイッチが日本モード切り替えったようです。
今、アメリカで過ごした時間の方が夢っぽくて少しアンリアルに感じられます。どちらの国にいても、浦島太郎になるしかないようです。
写真はアメリカで出会ったヤギです。人懐っこくて可愛いいけれど、僕のTシャツの袖を食べようとしました。
2019年8月22日木曜日
シニア恋愛の話
ちょっと寄り道ではありますが、僕の来日が中止になりそうになった時の話をします。
人生の大きな岐路に立たされ、悩みながら歩むべき道を決めるのは柔軟性のある、中年の世代だと思います。例外ももちろんありますが、僕たちが日本に引っ越すべきかどうかはその好例だったのでしょう。
僕と家内は日本とアメリカをいろんな局面から比較し、日本に住むメリットとディメリットをリストアップし、それを見つめつつ悩んだりはしましたが、結局日本に住んでみようということで合意しました。
でもうちの娘は8歳で来日することについて自分の意見を持つことができず、ついて行くしかありませんでした。
また、僕の両親はちょうどそのころ、老人住居施設に引っ越すことを決めていました。彼らは僕たちが海外に行ってしまうのは寂しかったと思いますが、「俺たち大丈夫だからお前らは日本に行きなさい」と励ましてくれました。僕たちの計画を阻止したくなかったようです。
Toboたちを上下で挟む世代はこれで尽きただろうと思われそうですが、実はもう一人(というか、一匹)の関係者がおりました。それは愛犬のジンジャー(別称:ジンノスケ)でした。ジンジャーを動物保護施設からもらったため、彼女の年齢ははっきり分かりませんが、13歳以上だったということは確かです。つまり、老犬でした。
もっと若い犬なら貰い手が見つかりやすいですが、老犬を貰いたがる家庭は滅多にありません。そして環境の全く違う日本に連れて行くことは非現実的でした。生きて検疫所から出てくることさえ想像できませんでした。僕は既に仕事のオファーを承諾していましたが、だんだんと恐ろしくなってきました。ジンジャーの将来が心配でなりませんでした。獣医さんは安楽死を提案しましたが、僕はそれが絶対にイヤでした。仕事を辞退するしかないのかなと少しずつ思うようになりました。
でも可能性が低くても道はあるかもしれないし、できることはしようと思いました。ジンジャーの情報を貰い手を求めるペットの掲示板に載せました。ずっと反響はなかったのでもうダメだろうと諦めましたが、来日を取りやめる話を始めようかと悩んでいた時期に救いの手が伸ばされてきました。ジンジャーに会ってみたいという連絡です。
メッセージをくれたEさんはクランシーという老犬を飼っていました。最近まで二匹でしたが、一匹が歳で亡くなったそうです。クランシーは目がほとんど見えず、相棒が亡くなるまではいつも彼の後について、導いてもらいながら活動していたそうです。相棒の支えを奪われたクランシーは外出する勇気も元気もなくなっていました。それで飼い主は相棒に代わる「犬用盲導犬」を求めてジンジャーに着目したのです。仔犬だとあと10何年飼わないといけないし、ジンジャーぐらいの歳の犬がちょうどいいということでした。
ジンジャーを連れて様子を見に行ったところ、とても良い環境でした。フェンスに囲まれた広い庭があり、犬が自由に出入りできるようになっていました。クランシーとジンジャーはすぐに仲良くなり、庭で遊び始めました。何だかラブラブな雰囲気です。
心配な点はなかったわけではありません。Eさんは猫も飼っており、その餌を一日中出していたようです。食いしん坊のジンジャーはそれを食い尽くして問題を起こさないのかな、あるいはもっと大変なことに猫を攻撃するのではないかと心配しました。でもEさんはジンジャーの欲張りを気にしなかったし、猫たちはジンジャーのことを怖がりませんでした。ジンジャーは猫に対してちょっと複雑な気持ちがあるようで、逃げる猫を追いかけるけれど、逃げない猫と仲良くする方針です。
話が順調に決まり、日本へ発つ少し前にジンジャーをEさんたちに引き渡しました。ジンジャーにまた会えるだろうと思ったのでそんなに悲しくなかったです。
僕たちが日本に着いてからEさんが時々連絡をくれました。彼女の話によりますと、クランシーとジンジャーはシニアの恋愛をしていたそうです。僕たちはジンジャーをずっと一匹で飼っていたので、雄犬の側にいるようになったジンジャーは嬉しかったのではないでしょうか。そして彼女もクランシーに自信と程よい刺激を与えたようでよかったなと思います。
Eさんは良心的な飼い主でしたが、ジンジャーの寿命はその後あまり長くありませんでした。腎不全と尿道炎で手術が必要でしたが、獣医さんの判断ではジンジャーは麻酔に耐えられなさそうでした。Eさんは結局安楽死させることにしました。僕が嫌がっていた結果ではありますが、ジンジャーはクランシーとの時間を与えられたことを嬉しく思います。
柔軟性は結局シニアたちにもあるみたいですね。両親は僕が側にいなくても大丈夫でしたし、ジンジャーもボイフレンドと遊んだりキャットフードを食い荒らしたりできる、気楽な晩年を手に入れました。そう考えるとこれからの僕にも希望があるような気がします。
人生の大きな岐路に立たされ、悩みながら歩むべき道を決めるのは柔軟性のある、中年の世代だと思います。例外ももちろんありますが、僕たちが日本に引っ越すべきかどうかはその好例だったのでしょう。
僕と家内は日本とアメリカをいろんな局面から比較し、日本に住むメリットとディメリットをリストアップし、それを見つめつつ悩んだりはしましたが、結局日本に住んでみようということで合意しました。
でもうちの娘は8歳で来日することについて自分の意見を持つことができず、ついて行くしかありませんでした。
また、僕の両親はちょうどそのころ、老人住居施設に引っ越すことを決めていました。彼らは僕たちが海外に行ってしまうのは寂しかったと思いますが、「俺たち大丈夫だからお前らは日本に行きなさい」と励ましてくれました。僕たちの計画を阻止したくなかったようです。
Toboたちを上下で挟む世代はこれで尽きただろうと思われそうですが、実はもう一人(というか、一匹)の関係者がおりました。それは愛犬のジンジャー(別称:ジンノスケ)でした。ジンジャーを動物保護施設からもらったため、彼女の年齢ははっきり分かりませんが、13歳以上だったということは確かです。つまり、老犬でした。
もっと若い犬なら貰い手が見つかりやすいですが、老犬を貰いたがる家庭は滅多にありません。そして環境の全く違う日本に連れて行くことは非現実的でした。生きて検疫所から出てくることさえ想像できませんでした。僕は既に仕事のオファーを承諾していましたが、だんだんと恐ろしくなってきました。ジンジャーの将来が心配でなりませんでした。獣医さんは安楽死を提案しましたが、僕はそれが絶対にイヤでした。仕事を辞退するしかないのかなと少しずつ思うようになりました。
でも可能性が低くても道はあるかもしれないし、できることはしようと思いました。ジンジャーの情報を貰い手を求めるペットの掲示板に載せました。ずっと反響はなかったのでもうダメだろうと諦めましたが、来日を取りやめる話を始めようかと悩んでいた時期に救いの手が伸ばされてきました。ジンジャーに会ってみたいという連絡です。
メッセージをくれたEさんはクランシーという老犬を飼っていました。最近まで二匹でしたが、一匹が歳で亡くなったそうです。クランシーは目がほとんど見えず、相棒が亡くなるまではいつも彼の後について、導いてもらいながら活動していたそうです。相棒の支えを奪われたクランシーは外出する勇気も元気もなくなっていました。それで飼い主は相棒に代わる「犬用盲導犬」を求めてジンジャーに着目したのです。仔犬だとあと10何年飼わないといけないし、ジンジャーぐらいの歳の犬がちょうどいいということでした。
ジンジャーを連れて様子を見に行ったところ、とても良い環境でした。フェンスに囲まれた広い庭があり、犬が自由に出入りできるようになっていました。クランシーとジンジャーはすぐに仲良くなり、庭で遊び始めました。何だかラブラブな雰囲気です。
心配な点はなかったわけではありません。Eさんは猫も飼っており、その餌を一日中出していたようです。食いしん坊のジンジャーはそれを食い尽くして問題を起こさないのかな、あるいはもっと大変なことに猫を攻撃するのではないかと心配しました。でもEさんはジンジャーの欲張りを気にしなかったし、猫たちはジンジャーのことを怖がりませんでした。ジンジャーは猫に対してちょっと複雑な気持ちがあるようで、逃げる猫を追いかけるけれど、逃げない猫と仲良くする方針です。
話が順調に決まり、日本へ発つ少し前にジンジャーをEさんたちに引き渡しました。ジンジャーにまた会えるだろうと思ったのでそんなに悲しくなかったです。
僕たちが日本に着いてからEさんが時々連絡をくれました。彼女の話によりますと、クランシーとジンジャーはシニアの恋愛をしていたそうです。僕たちはジンジャーをずっと一匹で飼っていたので、雄犬の側にいるようになったジンジャーは嬉しかったのではないでしょうか。そして彼女もクランシーに自信と程よい刺激を与えたようでよかったなと思います。
Eさんは良心的な飼い主でしたが、ジンジャーの寿命はその後あまり長くありませんでした。腎不全と尿道炎で手術が必要でしたが、獣医さんの判断ではジンジャーは麻酔に耐えられなさそうでした。Eさんは結局安楽死させることにしました。僕が嫌がっていた結果ではありますが、ジンジャーはクランシーとの時間を与えられたことを嬉しく思います。
柔軟性は結局シニアたちにもあるみたいですね。両親は僕が側にいなくても大丈夫でしたし、ジンジャーもボイフレンドと遊んだりキャットフードを食い荒らしたりできる、気楽な晩年を手に入れました。そう考えるとこれからの僕にも希望があるような気がします。
2019年8月16日金曜日
来日して10年
2000年ごろから日本語を熱心に勉強してきた僕は、日本で暮らしてみたい気持ちはずっとありました。せっかく身につけた日本語力をもっと鍛えたかったし、文芸翻訳に関心に持つ僕は日本で暮らしてみないとうまく訳せないだろうなという懸念もありました。そして何よりも日本の人々と直接触れ合いたかったです。でも日本に引っ越すことは雲の上のような話で実際そうなると思ってもいませんでした。アメリカに仕事も家もありそして家族の事情もいろいろとあり、来日するなんて非現実的なことに感じられました。
ところが、2008年にアメリカの経済が悪くなったころにチャンスがやってまいりました。僕も家内も仕事を変えてもいいかもということになったので、これからどうしようといつもよりオープンマインドで将来のことを二人で考えてみたりしました。そして東京での仕事の公募をネット検索で気づいたときに、まぁ応募してみるかという軽い気持ちで履歴書を送くりました。その話は案外早く決まり、2009年2月に日本に引っ越すことになりました。
家も車も所有物の9割を売り払って、航空会社が認める重量ギリギリのスーツケースを引っ張って空港に出向きました。娘は8歳で僕は39歳でした。家内の年齢を非公開にしておきます。
これからその後の出来事を少しずつ綴っていきたいと思います。
写真は一昨年の夏休みに撮ったものです。2週間ほどアメリカで過ごして日本に戻ったら、富士山が雲からお顔を出して挨拶してくれました。何だか心強い光景でした。
2019年8月13日火曜日
Tobo、生きています!
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