2007年5月30日水曜日

もらい物


この間、遠い所へ引っ越す知人に沢山のもらい物をしてきました。ある小さめな収納棚を安く売ってくれることになっており、それを取りに行っていたのです。引越しの直前でアパートの中に段ボール箱やきれいに整理された家庭用品があっちこっちに置いてあります。そして、例の棚を車に積み込み、最後の挨拶を述べようとした時に、思いがけない攻撃を受けてしまいました。

「これもど~ぞ!」

「じゃねぇ、これも要らない?」

「これが余っているので、おまけにしてあげる・・・」

と誠にタクサンの物をくれました。種類は様々です。食料品(新品も使いかけ)、チビのフラフープ、小さなプラスチック製の収納棚、風鈴、等と山ほどもらってしまいました。

こういう時は、家内は遠慮しがちですが、私は大抵受けることにします。私達は夫婦として性格的に共通点が多い方だと思いますが、これが数少ない相違点の一つなのでしょう。

とは言えても、家内の気持ちがわからない訳でもありません。他人が引っ越す際に要らないと判断する物は、家には必要だと思えないものです。もらってしまえば、家も今度引っ越す時に、誰かに押し付けなくてはいけない羽目になってしまうのです。もし、実際に使えそうな物があれば、それだけをもらい、その他はお断りしましょう。この考え方は理屈がちゃんっと通っていることは私も承知します。

しかし、いくら引っ越しは冷静に考えるべきだとは言え、いざという時に引っ越す本人もその周りの仲間も様々な感情に引っ張られてしまうのです。引っ越す人は人生の次章を迎える喜びが主でしょうが、さようならという苦い言葉もあるし、「このアパーとに溜まってきたガラクタをどうにか処分しなくちゃ!」という慌しい現実も迫ってきます。引っ越しは肉体的にも疲れますが、精神的にもぐったりするのはこのせいなのでしょう。

今日の本人も何だかハイな感じで自分のアパートを素早く飛び回っていました。 そのハイ感と処分の必要感が一緒になっているらしく、これも、これも、是非こ~れも、と促してくるのです。大きすぎて家に置く場所がない物は仕方なく断りましたが、それ以外は受けてしまったのです。こういう時は「僕にとってこれはガラクタに過ぎない」という雰囲気を起こしてはいけないような気がします。本人は自分の物を処分しなくてはいけないのですが、「価値のない物」としてゴミ箱に放り込むことが切な過ぎる。最後まで、誰か受けてくれる使い手を捜してしまうのです。その人に自分の「価値のある物」を与える方が精神的に楽なのです。

相手のそういう精神的要求に応えたいところもありますが、私はそんなに単純に優しいことばかり考える人間ではありません。正直にいうと、私は「ただ」という言葉に非常に弱いのです。

(考えてみると、遺伝子が関わっているかもしれません。私の家族は昔スコットランドから北米に渡ってきたのですが、現在でも、スコットランドという国名を「Scotch」という形容詞に変えると、「けち」という意味にもなります。)

とにかく、引っ越す本人も興奮してしまい、私も興奮してしまい、家内が悪い物でも食べたような表情になり、車が荷物でいっぱいになりました。

家に帰ると、車から引っ張り出して置く場所を決めることは一仕事でした。そして、プラスチック製の収納棚をよく見ると、なんとホコリがいっぱいついています。ホコリの溜まり方は家庭によって違うだろうけれど、私の目には三年分ぐらいは溜まっています。石の上にも三年は大変良いことだそうですが、プラスチック棚の上にも三年分のホコリは望ましくない発見でした。

そして、この棚の周りにはプラスチック格子が付いているので、その穴を一つ一つ拭かなくてはならないのです。三十分前に目を星にして「この人が処分したがっているから、もらった方が実は優しいんだ」と考えていた自分がいやになってしまうのです。

時間をかけて棚を丁寧に拭いていると、少し気を取り直しました。この棚は机の側に置けば、今までごた混ぜになっていた鉛筆や書類を整理してくれそうなので、もらってよかったと改めて思えました。三年後にホコリが溜まっていないように、毎日使いましょう。

2007年5月28日月曜日

日本語の一人称代名詞


前回は英語の「I」と「Me」の違いを主張していましたが、この二つは誰も使っています。日本語の一人称代名詞の場合は無論違います。日本語の勉強を大学で始めて、直ぐに「私」に出会いました。「私イコールI。ふむふむ、なるほど。よーし、次の単語は?」と簡単に受け取りました。そして、次の学期に、「僕」も教わりました。直ぐに使い始めた人もクラスにいましたが、私はもう「私」に慣れていたし、「私」は字としてバランスがとれていて、書きやすいので、わざわざ「僕」を使い出すことは面倒くさく感じました。それから、「僕」は男性専用だと言われたので、使ってしまえば、自分がマッチョマンに見えるのではないか、というためらいもありました。(私は普通の男性なのですが、マッチョマンではないことは明らかだと思います。)「僕」にはそういう雰囲気がしないことは今充分解っていますが、日本語の一年生には男専用の一人称代名詞は実に不思議な現象で、どう解釈すればいいのかまるで分かりませんでした。場合によって一人称代名詞を選ぶことは多分教わったと思いますが、私は「私」から離れませんでした。何しろ、日本語を話す所は教室しかなかったので、「場合」はいつも同じでした。

留学の頃は始めて生きた日本語に囲まれ、「オレ」、「アタシ」、「ワシ」という言葉から日本語の一人称代名詞の幅広さを少しずつ意識してきました。しかし、私を泊めてくれたホストファミリーに、「私」以外の一人称代名詞を使わせてもらえませんでした。「僕」を口にしてみると、若い人が使うと失礼だと言われました。その挙句、留学グループの他のメンバーが「僕」や「オレ」を楽しそうに使っていたところ、自分は「私」に縛り付けられた気分になりつつあったのです。今から考えてみると、あのホストファミリーは何故「僕」を好まなかったのか、よく分かりません。

アメリカに帰えり、その翌年大学で日本語を学ぶ時代が終わり、数年の日本語バキュームが過ぎました。ところが、家内と結婚し、日本語を再び知り合うチャンスが訪れました。最初の頃は「私」がまだ口に残っていましたが、「僕禁止」というムードがもう消えていたので、「私」がそろそろ「僕」に変わりました。

その頃から今までの十数年間、「僕」を使い続けてきました。たまたまフォーマルな場面に出会うと、「私」に戻りますが、それ以外は専ら「僕」です。「オレ」は殆ど使っていません。プンプン起こっていると、うっかり口にすることもありますが、それは一年に一回程度でしょうか。基本的に私には似合わない言葉だと思います。同じように、「お前」をめったに使いません。(たまに使ってもその対象は家の犬に決まっています。)

そんなに「僕」に馴染んできたので、このブログを始めて、「私」がつい出てきた時は少し驚きました。何が普通に使われているのか知りたくて、早速日本人のブログを幾つか見学しました。しかし、「呟き系」もあれば、「エッセイ系」もあり、あらゆる一人称代名詞が使われています。それで、自分の立場を考えることにしました。これは私の初めてのブログ経験で皆様の前で「呟く」ことはどうも出来なさそうでした。それに、普段使っている日本語よりはもう少し綺麗で礼儀正しい日本語にしようと思ったのです。結局、私は「私」でいいように思えました。

でも、頂いたコメントのレスを書くと、また「僕」になってしまいます。何故か、一人の相手に対して書くと、自分の会話的な声が出てくるのです。

このように、自分が自然に口にする一人称代名詞を使うようになりましたが、それは日本人の耳にも自然に聞こえるかどうかは解りません。しかも、日本人はどのくらい意識して人称代名詞を選んでいるかも解りません。

やはり、日本語の一人称代名詞にどんなに使い慣れても、我輩は外国人である。

2007年5月27日日曜日

人称代名詞とMe

知人に日本語のことを話していると、日本語に一人称代名詞が複数だと知らせれば、大抵驚いてもらえます。「なんで一つで済まないんだろう?いやぁ、日本語って難しそうな言語だな」という風に不思議がる人が多いです。確かに英語の感覚には日本語のこの特徴が案外だと言えるでしょう。英語だと、文法的な役割によって「I」か「Me」を使いますが、この二つは基本的に同じ言葉なのです。

といっても、感情的には僅かな違いがあるのでしょう。「Me」を間違えて主語として使えば、ちょっとした耳障りになります。例えば、

“Me and Billy is goin’ to the moving picture show, paw.”
(親父よ、Billyと映画館に行ってくるぜ)

というと、話し手が何十年前の田舎人に聞こえてしまいます。そのため、「Me」を下品な代名詞として避ける人もいるのです。ところが、「I」を「Me」の代わりに入れてしまうと、その逆効果が起こってしまいます。

“Whomever lost that file, it certainly was not I.”
(どな~たがそのファイルを無くしたにしろ、ワ・タ・ク・シでないことは確かですとも。)

この英文の話し手は、教育されていないのに、教育された印象を作ろうとしています。しかし、ちょっと努力しすぎなのです。丁寧に話したいから、文法を犠牲者にしてもいい、という態度です。丁寧に話すことは立派なのですが、文法をそう簡単に犠牲する人間が次の瞬間に仲間を犠牲者にするのではないか、という疑いを招くのです。丁寧すぎて、冷たい言葉遣いなのです。

従って、英語の一人称代名詞が基本的に同じなのに、アメリカには「I」と「Me」の感情的な影響を受け、その文法的な使い方を見落とす人が少なくありません。

この結論にたどり着くと、この投稿に日本語の人称代名詞について書こうとしていたことに気づきます。(話題をそう簡単に犠牲する人間が・・・)

とにかく、日本語の話は今度にとっておきますが、最後に間違えた例文を直しましょう。

“Me and Billy is goin’ to the moving picture show, paw.” (元の文)
“Billy and I are going to the moving picture show, paw.”(正確な文法)
“Billy and I are going to the movies, Dad.”(昔の田舎なまり削除)

“Whomever lost that file, it certainly was not I.” (元の文)
“Whoever lost that file, it certainly was not me.” (正確な文法)
“I’m not sure who lost that file, but I don’t think it was me” (刺々しくないバージョン)

2007年5月25日金曜日

チビとの討論

チビの部屋がひどく散らかっています。どういう風に散らかっているかといいますと、本におもちゃ、まだきれいな洋服に汚れた洋服、鉛筆にビー玉、という感じで、そのど真ん中に逆様になっている洗濯籠がお人形のお茶会のテーブルになっています。つまり、「この部屋には床があるのか」という状態です。自分からなかなか片付けようとしないチビに、「パパが手伝うから今日こそ部屋の掃除をしよう」と誘ってみました。しかし、この作戦が全然効きませんでした。

ほら、チビがこっちを向きません。「いいよ、パパ。別に片付けなくたって平気だよ。」

「パパとママは平気じゃないよ。歩けないほど散らかっているよ。」

「それは大丈夫。私なら歩けるよ。」

「でもね、このままだと寝る時におやすみを言いに来れないよ。それでもいいのかい?」

「ふん、そうか。じゃ、通路を作ってあげる。」

「・・・・・・」

「じゃ、Lちゃんの家に遊びに行くのね。」

「ち、ちょっと待てよ。やっぱり片付けようよ。」

討論に勝てなかった私には、「やりなさい」という言葉、即ち親の究極兵器を持ち出すしかありませんでした。しかし、渋々と片付け始めるチビが努力しません。本を拾っても、ぱらぱらとページをめくるだけです。何回か注意したけれど、チビの動きが少しも早まってきません。このままだと、私が全部やってしまいそうなのです。つまり、チビの勝利。これはいけません。

「じゃ、暫く自分でやってみて。片付いたら遊びに行ってもいいよ」と私は何気なく言い捨てて、部屋を出ます。

隣の部屋でメールチェックしていると、物音は全くしません。ちょっと不気味になってくるくらいです。しかし、数分後、

「パパ、ちょっと昼寝していい?」と聞いてくるのです。赤ちゃんの頃にも昼寝を殆どしなかったチビにしては高いレベルの抵抗です。

「昼寝? ま、いいよ。疲れているならしょうがないね。」

チビがもぞもぞと毛布の下に潜り込み、部屋が又静まり返ります。

沈黙が二分、三分流れていきます。まさか、本当に寝るとは・・・。

「パパ、おなかがへんだよ~」

やっぱり。

様子を見にいくと、全然苦しくなさそうなチビが毛布に絡まっています。「おなかが痛い」はチビの最後の戦略でした。この程度の抵抗力をつい尊敬してしまいます。でも、チビの茶色い目は今私の顔を探しています。

何よりも、チビは一人でいることが嫌なのです。こんなベッタリチビには兄弟がいないことが申し訳なく感じてしまいます。

暫くおでこを撫でてもらったら、チビがほっとしたみたいです。今のうちに動き出さなくちゃ。

「どう?二人で片付けない?」

「うん、二人でやろう、パパ。」

部屋が片付いてくると、チビが突然「片付けるって楽しいね」と言い出すのです。それは彼女の今の気持ちですけれど、何度も演じてきたこの劇がこれからも何度も演じられるのでしょう。

いつか、チビが「一人でもいいから片付けない」と決める日がくるかもしれません。

又は、自分から部屋の掃除をしたくなる日がくるかもしれません。

いろいろな可能性がこもった将来が訪れるまでは、こういう部屋掃除討論を大切にしましょう。

2007年5月24日木曜日

生きた日本語への橋

最初の投稿にも述べましたが、日本語を直して頂けると実に嬉しくなります。怪しいと思っていた表現がやはりそうだった時もあれば、全然疑っていなかった言葉が間違っている時もありますから、言語能力をつけるのにネイティブの方々に助けて頂くことが非常に大切なのです。従って、注意される事は私にとって決して不愉快な事ではありません。却って、どんなに小さな事でもとても感謝します。

それだけではありません。ある意味で、直されることは自分の存在を認めて頂くことなのです。これが学習に関係ないと思われるでしょうが、アメリカで日本語を使っていると、いくら本を読んだり、衛星放送でNHKを観たりしても、家でしか使えない日本語が家のプライベートな言語に感じてしまうのです。それは確かに便利で楽しい面もあるけれど、学習者としてある孤独感を覚える時もあります。これは実存主義者が自由詩に延々語るアンニュイというような大げさなことではなく、「どうせ勉強してきたんだから、日本語を使うチャンスがもっとあったら」というごく普通の気持ちです。そういう意味でこのブログを通して、投稿を読んで頂くと、その言語的な孤独感が飛んでいきます。皆様とコミュニケーションができることは私にとってとても嬉しいことです。ありがとうございます。

こういうことを考えていたら、感謝の言葉を書きたくなったのです。これからもどうぞ宜しくお願いします。

2007年5月23日水曜日

久しぶりの漢字練習

昨日は幾つかの小さな用事を済ませに出かけ、そのついでに喫茶店に行って昼食をとりながら勉強してきました。持って行った本は、漢字と語彙のクイズを25ずつまとめている日本語能力試験の練習問題集です。最近はブログの投稿を書いたり、小説を読んだりしているので、この本を手にするのは本当に久しぶりでした。実は、どこまで進んだのかさえ覚えていなかったので、漢字の最後のクイズを受けることにしました。

この本は自分の学習のために買ったのに、本の中にクイズの回答を書くことはとても出来ないのです。これは何故かというと、話が自分の小学生時代になってしまうのです。アメリカの小学校は同じ教科書を何年間も使い続けているので、自分の幼い頃はよく「大切な教科書を汚すな!」と言われてきたのです。学年の最初の日に教科書を配られ、表紙の内側に名前を記入していました。新しい教科書でなければ、その前の持ち主の名前も書いてあるので、よく知っている人や頭のよさそうな人が使っていたことが分かると、この本にはいい縁があって嬉しい!という気持ちでした。しかし、学年の終わりに、先生に教科書を返すときは、先生は本に何のダメージもないことを確認してから受け取るのです。少し古びていてもいいけれど、ひどく汚れたり、ページが破れたりする場合は大きな騒ぎになってしまうのです。私の本をチェックしている先生の顔をみていると、どうしてもドキドキしてしまっていたのです。そんな少年時代を送った私は現在、練習問題に答えるときは、回答を別紙に書くことにしています。そう考えると、悲しいような、懐かしいような複雑な気持ちになります。子供は、大人の気づかないところにも大きな影響を受けている、ということですね。

話を戻しますが、久しぶりの漢字練習がうまくいったかと思ったのですが、解答用紙を見たら、やはりミスがいくつもありました。

しかし、食事の方はよかったです。店の新メニューのサーモンサラダにしてみました。サーモンも美味しく、サラダのレタスとインゲンも新鮮でした。ただ一つ残念なのは、そのドレッシングは少々甘すぎました。アメリカだと、何でも甘くなってしまうのはどうしてでしょう。今度から、ドレッシングを横に添えるように頼みましょう。

今日の投稿はいろいろな話を混ぜて書いたのですが、ま、そんな一日でした。喫茶店にカメラを持っていかなかったのですが、家に帰ってから写真をとりました。

2007年5月22日火曜日

ある時期のレモネード

外国語の学習として、音楽がよく用いられているのですが、私はそれを体験した場所は、日本語の教室でなくて、家の居間でした。

お子さんのいる方はすぐに分かると思いますが、子供がテレビに興味を示すようになってから、家中が同じ声、同じ台詞、同じ音楽でいっぱいになるのです。子供は一旦ある番組にはまると、何度も何度も観たがってしまうのです。

親にとってこれは子育ての節目の一つと言えるでしょう。今まで子供の幸せと生長を考えて作り上げた家の環境が、段々と子供の意志に影響されてくるのです。勿論、親が子供に見せる番組を選ぶことが出来ますが、子供がその中から一つにはまれば、親の辛抱の限界が試されてしまうのです。

アメリカの子供向けテレビ番組には、親を悩ますキャラクターが幾つかいます。その最凶最悪な犯人は、バーニーという紫と緑のフォームラバーでできた恐竜なのです。彼が主役を務めるBarney and Friendsの内容は見事にポジティブで教養的なので、バーニーを禁止し、もっと暴力的な番組を勧めることは考えられません。しかし「I hate Barney」をGoogleに入力すれば、アメリカの親たちの恨みの深さに圧倒されてしまうのです。この現象がいいことであれ、悪いことであれ、事実なのです。

家がこういう段階についたら、やはり私も家内も同じような辛い思いをしました。家内の第一の敵はCaillou(カイユー)というカナダ人の男の子でした。確かに「I hate Caillou」でネット探索をすれば、バーニーほどではないのですが、大した収穫が返ってきます。彼のニヤニヤ声が家の中に響くや、家内の顔がこわばってしまうのですが、幸い、家のチビのCaillouマニアは長続きしませんでした。

英語の慣用句ですけれど、「酸っぱいレモンを渡されたら、甘いレモネードを作れ」と言います。Caillouの間抜けな笑い声で苦しんでいる家内にはそんな楽観的な決まり文句を言い聞かせる訳にはいかなかったし、正直に言うと私自身もそんなに楽観的な物の見方をしていなかったけれど、チビの日本語テレビが自分の語学チャンスだとなんとなく感じたのです。

運良く友達からしまじろうのビデオを何本か頂いていたので、家の親子日本語タイムができました。そういうビデオの簡単な単語とその音楽の繰り返しを通して、日本語の基本的なリズムに少し馴染むことができたかもしれません。きっと、人間の音楽感と記憶が脳みそのどこかで結ばれているのでしょう。今でも、忘れたくても、しまじろうとビデオのお姉さんのデュエットが忘れられません。


夏だ  (夏だ!)

キラキラキラキラ  (キラキラキラキラ)

お日様と  (お日様と)

ふわふわふわふわ  (ふわふわふわふわ)

白い雲  (白い雲)

だいだいだいだい  (だいだいだいだい)

だい~す・き・な~  (大好きな!)

なつなつなつなつ  (なつなつなつなつ)

なつ~がきた~  (夏が来た!)


大抵、私がいっしょに踊ったり歌ったりしていましたが、チビはどうしても真剣な顔で画面をみつめるだけです。チビはみみりんのファンになったのですが、端役のキャラクターに同情せずにはいられない私はとりっぴいを応援するようになりました。

勿論、しまじろうを観たい日もあれば、観たくない日もありました。しかし、毎日チビと観ている内に、しまじろうと彼の仲間が私達の「日本語育て」の一部となったのです。

2007年5月20日日曜日

朗読のメリット

去年、大学の四年生レベルの日本語クラスに社会人生徒として参加しました。日本語の教室に入るのは十何年ぶりだったので、付いていけるかなと心配したけれど、普段家でしか使えない日本語を違う環境で操るのが刺激的で、クラスの内容もとてもよかったです。

教科書は主にRead Real Japaneseを使っていました。この本は森瑤子やよしもとバナナや村上春樹のエッセイの原文とその英訳をまとめているので、「本物の日本語」への飛び石としてはとても有効な教科書です。

クラスで、そのエッセイの文を一つずつ順番で朗読しました。正直にいうと、最初はその授業法にいささか納得できませんでした。クラスの皆さんが授業の前に読んできたはずですから、クラスで再び読むのは何故だろう、とその目標がぴんときませんでした。家で日本語を毎日話しているので、話すことには何の不自由もないとも思いました。

しかし、少しずつ、「家での日本語」と「エッセイの日本語」の差を実感してきました。いうまでもないですが、家で言う事がよく途切れてしまいます。例えば、

「ただいま!今日は、・・・ひぇっ!あの臭いは一体なんだろう?」

会話なら更に

「昨日見ていた番組はね、」

「昨日の?」

「うん、夕飯の後観てたやつ」

「ふん、よく覚えていないな」

「もしかして、眠っていた?」

「そうかなぁ・・・」

云々と余計途切れてしまうのです。それに、もう少しスムーズに流れても、会話の内容はエッセイに出てくるような複雑な文型とは全く違います。だから、「日本語が話せる」と自慢していた私は、実際「日本語の断片を口にしている」と言った方が正直かもしれません。

こんな私が授業の予習として、その日のエッセイを何回か朗読してみるようになりました。これは何だか恥ずかしいように感じましたが、それは多分自分の弱点がばれていたからでしょう。とにかく、皆が寝てから静かな声で朗読していたら、段々と授業でスムーズに読めるようになりました。

あのクラスが終わって、ちょうど一年間になります。全く朗読しなくなった私は再び挑戦した方がいいのではないか、と思っています。やはり、自分の作れる文を会話として口にするだけでなく、自分が将来作れたらいいなと思う文も口にしてみるのが大切です。

今夜の朗読として、もう一度その教科書を引っ張り出しましょう。

2007年5月17日木曜日

思いがけない言葉


十年以上前の話ですが、大学院に入学してすぐの頃でした。アメリカの中西部で大学院生並みの貧しい生活を送っていました。まだ結婚していなかったけれど、家内と付き合っており、彼女が私のぼろアパートに遊びに来ていました。

その日は何かごちそうが食べたかったので、二人で手巻き寿司を作ることにしました。その頃、大都会に行かない限り、日本食料品が殆ど手に入りませんでした。大型スーパーに行けば、ふにゃふにゃと湿ったのりとお酢位しか期待できません。でも私達はそんな状況に充分慣れていたので、何の不満もなく買い物に出かけました。

具には、玉子焼きとアボカドときゅうりしかなくて、この三つをビッグ・スリーとさえ表現していました。生で食べられる魚が無論なかったし、もしスーパーに置いてあるとしても、私達にはそんな予算はなかったのです。(それに私はその頃菜食主義を固守していました。)

しかし、その程度の手巻き寿司が普段食べていたスパゲッティやサンドイッチより随分豪華な食事でした。家内が具の用意をし、私は時々彼女の指導を受けながらご飯の味付けをしました。夏のやや 暑い日で、60年代の安物の食卓に向かった時、二人とも少し汗ばんでいました。

ゆっくりと食べました。何故かわさびもあったので、「きたっ!」と叫び、鼻を手で覆うことは時折ありました。家内は自由に色んな組み合わせをしていたけれど、私はアボカドときゅうり→きゅうりだけ→玉子焼きだけという循環を律儀に繰り返しました。とうとう、おなかがいっぱいになり、二人とも動けないまま座っていました。胃袋が裂けそうな時の独特な沈黙が暫く続きました。

その時でした。家内が何気なく「お尻に根っこが生えたぁ」と発言しました。

当時、私は「生える」という動詞も「根っこ」という名詞も知りませんでした。しかし、発音の近い単語は幾つか知っていたので、家内の言葉を聞き間違えてしまったのです。私の頭の中に、

お尻に猫が入った

お尻に猫が入った

お尻に猫が入った   

という言葉が響いたのです。すさまじいスピードで知っている単語を頭の中でチェックしてみたけれど、他の意味を見つけることが出来ませんでした。

驚きの余り何も言えませんでした。暫く混乱した挙句、「で、でも、猫なんか飼っていないよ」と呟いたのです。

私の誤解を解くのに数分かかりました。

日本語の勉強を始めてから、話し相手の言葉を聞き間違えることが無数にあったのですが、この思いがけない猫だけは一生忘れられないのでしょう。

ちょっと反省

このブログを十日間続けてきました。大した記念日ではないけれど、今日の投稿で今までの感想を書かせて頂きましょう。一番びっくりしたのは、熱しやすく、冷めやすい私なのに、毎日投稿を書くのが楽しいのです。

文章力が上達するかどうかは分かりませんが、ブログで自分の考えを整理することは価値があると思います。私の好きなE.M. Forsterが言ったように、「声に出して言うまでは、自分の考えは知りようがない」ということでしょうか。

さて、今まで発見した事をまとめましょう。

  • 私には「日本語での声」があるかもしれません。まだスムーズには流れていかないけれど、私の書く文章には自分の声がわずかに聞こえてきました。

  • 訪問者様の人数はまだ少ないようですが、その分一人一人を大切に思っています。

  • ブログの知識には乏しいです。このページを読みたい人々にはこのページを見つかりやすくしたいけれど、その方法はさっぱりわかりません。詳しい方がいらっしゃれば、是非アドバイスを下さい。

  • なぜか、私はくだらない冗談が好きです。気さくな読者様が「母国語の英語ならもっと品のいいユーモアができるんだろう」と弁護して下さるかもしれませんが、実は私はこんなものなのです。どうかお許し下さい。

最後に、このブログを面白くしたいので、訪問者様には「これが特に面白かった」や「この辺をもう少し知りたい」というような意見がありましたら、是非聞かせてください。宜しくお願いします。

2007年5月16日水曜日

経験的学習

語学もフルーツパイも人間の存在意義を高めるような貴重な文明現象である。強いて言えば、その二つの一つがなかったとしたら、世の中がはるかに暗くなってしまうのであろう。この事実は多くの人間に認められているのだが、語学とフルーツパイには何か関係があるのか、という点はまだ疑問のままである。

ところが、その可能性は充分考えられる。フルーツパイを焼く際、語彙を少し入れておけば、フルーツの酸に普遍文法が溶けられ、言葉が、このパソコンの回路を巡っている電子の如く、自由に言語から言語へと移るだろうという推測がつくのである。

スーパーのフルーツ売り場でそんなことをぼんやりと考えていたら、実験を行うことにしました。イチゴとルバーブとパイ生地をさっさと買い、家に帰りました。 パイの用意ができたら、語彙を上のパイ皮の穴から入れ、オーブンに放り込んだのです。

夕飯の後、一切れ食べてみたけれど、まだこれという効果は感じていませんが、諦めるには早いと思います。例え、単語がたったイチゴ増えるだけでも、満足できます。

ところで、この語彙吸収法は、紅茶を一緒に飲んだ方がより効果的に思えるのですが、コーヒー派の方には選択の自由があります。

2007年5月15日火曜日

読書=LIFE

数年前から日本語の本を読んでいます。読み始めたきっかけも面白い話なのですが、今のところでは省かせて頂きましょう。とにかく、最初は家内の本棚に転がっていた本を手にして、分かりやすそうなのを読んでいました。一冊の本を最後まで読むことはめったになかったのですが、一目で分かる漢字や表現が段々増えてきたら、本を読みきることも多くなり、本を選ぶ際に読みやすさよりは内容の方を重視し始めました。それで、時々本をネットオークションで買ったり、友達に日本から送ってもらったりしていました。

そして、信じられないような幸運に、結構近いところに日本語の本を貸し出す図書室があります。殆どは文庫本で、時々読んでみたい作家の本が揃えていませんが、この図書室に通うようになってから、私の読書視野が随分広くなってきました。日本の文学界を知るのは、私にとって一生の仕事だと思うし、今この文章を書いている間、何百人かの日本人が小説の原稿をこつこつ書いていることを考えると、どのペースで読んでも、進歩するより、ますます遅れてしまいそうな気もします。

でも、どんなに読み遅れても、私のできることはページを一枚ずつ読むことしかありませんね。大雑把にいえば、本を読むときは二つの読書モードがあるのです。一つは、分からない漢字、単語、表現を全て調べながら読む、というかなり几帳面な読書法です。これは確かに効きますが、同じページに三十分をかけることもあるので、世界中の日本語小説原稿積もり具合をなるべく考えないことが大切なのです。

しかし、本と辞書を交代に見ることに飽きると、二つ目の読書モードに移ればいいのです。つまり、本だけに集中し、分からない言葉が出てきても読み飛ばしてしまうのです。これは、もっと楽な読書法ですね。まるで渋滞から抜け、高速道路で車をビューンと飛ばすような開放感なのです。(話題も飛んでしまうけれど、車社会のアメリカでは、スピード違反を常にしている人が多く、罰も割合軽いのです。)とにかく、そういう「ビューン読書」だと、全部分からなくても、本を楽しむことが案外できるし、読むスピードが上がるに連れ、総合的な理解もよくなると思います。しかし、分からない言葉が多すぎると、全然理解できなくなることもあるので、辞書を物置にしまわないほうがよさそうです。

この二つの読書モードを利用しながら、色々な作家が創造した世界を楽しむことができるので、日本の小説は私にとって、宝物とでも言えるのでしょう。これから、このブログに読書感想を時々載せたいのですが、皆様のお勧めの作家や作品も是非知りたいので、気軽にコメントを入れてくださいね。

2007年5月14日月曜日

面白そうなDSソフト

この間、ニンテンドーDSの「なぞって覚える、大人の漢字練習」について書きましたが、他にもDSで漢字の復習や漢字検定試験の練習問題ができるソフトがいくつかあるらしいです。それから、日本語の雑学ソフトもあり、面白そうなので、基礎がもう少し丈夫になれれば、私も挑戦してみたいです。

しかし、私のレベルにでも良さそうなソフトはそろそろ発売されるので、購入者の評価が高ければ、まずそれにしようかな、と思っています。

一つは、「旺文社のでる順 国語DS」です。これは中学生向けだと思いますが、漢字の問題以外にも、言葉の意味とその用法もクイズされるらしいです。熟語が沢山覚えられそうで、これの発売を楽しみにしています。もしこのトレーニングが完成できれば、山の頂まで登り、「オレは中学生レベルについたぞ~!」と絶叫したくなるのでしょう。

もう一つは、「美しい日本語の書き方・話し方DS」です。このソフトで字を書く練習もできるけれど、色々な場面でふさわしい言葉を選ぶ練習もできます。これは私に必要な練習です。日本語の文法は英語のよりルールが明確で例外が少ないですが、実際の使い方が難しいのです。殆ど家でしか日本語を使わないので、たまたま外で日本人に出合う度に、「この場合は、どういう挨拶がいいんだろう?この人に対して敬語を使うべきなのかな。敬語といってもどの程度がいいのかな・・・」等とためらっている内、何かはっきりしない言葉が口からこぼれてしまいます。だから、このソフトで練習して、もう少し交際上手になれたら、と思うのです。

但し、箱を見るとすぐ分かるけれど、このソフトは女性向きなのです。私は丁寧な言葉を好むのですが、女性っぽい日本語を話したくありません。(幸い、家内の日本語には女性的特徴が割りと少ないので、私も今まで普通の日本語を喋ってきたはずです。)結局、この「美しい日本語」は男でも使えるような内容だったら、本当に役立ちそうですから、購入者のレビューをよく読んでから判断しましょう。

2007年5月12日土曜日

Google依存症

私は自信たっぷりというような人間ではありません。何をやっても、やる前にはちゃんとしたやりかたが知りたいです。これだけだったら、どちらかというと人並みの性格に思えるけれど、日本語のことになると、私の確認マニアが異様に膨張してしまうのです。

つまり、文章を書くときはグーグル依存症に陥ってしまいます。「これはほんとに性格な日本語なのかなぁ」と疑い始めれば、もうおしまいです。グーグルに飛びついて、探索を始めるしかありません。

例えば、擬態語や擬声語にはかなり音痴なので、いつも使い方がごちゃごちゃになってしまうのです。(それとも、めちゃくちゃだったっけ?)考えれば、考えるほど分からなくなるので、日本人の皆さんはどんな使い方をしているのか、早速確認したくなります。

そして、“使い方がごちゃごちゃ”で探索すると、ヒットが七つしかありません。これでは、ちょっと少ないですね。ネット上の狂った英語の総量を考えると、日本人はともかく、私のような日本語素人がどの不自然な表現でもその位をネット上で使っているはずです。

それで、“使い方がむちゃくちゃ”で探索すれば、ヒット数は3480です。これでは、安心して使えます。これが終わりだったらまだいいけれど、つい、漢字の無茶苦茶はどうかな、と思ってしまいます。それで探索すると、ヒット数が3340で、そうか、半々か、どっちにしようかな・・・待て、漢字がある場合は擬態語じゃない・・かな?・・・云々と切りがないのです。(ちなみに、「切がない」だと21,000ヒットだけれど、「切りがない」なら173,000。)

結局、グーグルは、言語が実際的にどう使われていることを明確にしてくれて、ありがたい情報源ですが、この依存症は健全な傾向ではないような気もします。少し間違っていてもいいんじゃない、という気持ちにもなるし、私の目指す、ちゃんとした、正確な日本語が出来ても、それは少々平凡な日本語になるんじゃないかな、というオーバーなことまで考えてしまいます。ジョゼフ・コンラッドというポーランド生まれの作家が英語を二つ目の外国語として覚えてから筆を執りましたが、おかげでコンラッドの英語に新鮮な感じがします。英語ネイティブの人が考え付かないような表現が彼の作品に魅力を加えるのです。

「魅力を加える」のグーグルチェックをしましたが、ヒット数が48,500でした。正確な日本語でしたね。これは幸いな結果ですが、我々日本語素人の悩みは、魅力そのものはそう簡単に計れないことです。

2007年5月11日金曜日

もう少しましな提案

昨日は、「質問ゾーンを作ろう」という出鱈目な提案を書きましたが、今日はもっと真面目なことを投稿しましょう。数年前から作文パトナーが出来たらいいな、と自発的に思い始めたけれども、パトナーになってくれそうな相手もいなかったし、募集する方法もなかったので、実行を諦めました。

ところが、この間作文パトナーのことを思い出し、自分の考えをまとめる為、文章にしてみました。実は、それはこのブログを始める直前で、作文が書きたいという気持ちと、当ブログの動機はなんとなく似たようなものではないかと思います。

これ以降はその時に書いた文章です。私にとってまだまだ不思議な「である系」を使ってみたので、ちょっと変なところもあるだろうが、もしこのページを見て下さる方々がご自分の作文パトナーを見つけ、作文交換ができれば、是非その経験上の感想を聞かせて下さい。私も体験ができた場合、また投稿します。


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大学の頃、日本語を「あいうえお」から習い始めたが、十何年後の今でも、やはりまだまだ勉強中なのです。そして、日本語を使うチャンスの少ないアメリカに住み着いており、言語的な刺激に乏しいその環境への対策として、日本語の各能力を鍛える勉強法を少しずつ自分で探してこないと上達の期待は全くできないのである。それで、思いついた作戦の一つは作文パトナーと文章を直し合うことである。まだ体験したことがないので、作文パトナーとは何なの?と聞かれても、私自身もよく分からないのだが、考え付いた方法は以下の通りなのである。

1.習いたい言語を教え合えるような相手とチームを組む。外国語を教える経験等は全く必要ありません。自分が相手の習いたい言語のネイティブスピーカーであり、相手が自分の習いたい言語のネイティブスピーカーであれば充分宜しいのである。

2.作文の話題を二人で決める。最初の何回かは映画、音楽、食事、自然、思い出、等という書きやすいテーマが快適であろう。そのあと、お互いの興味によって、いろんな方向に進んでもよかろう。例えば、社会問題、文学感想、カントの哲学はどこで間違っているのか、パスタを生み出した国は中国なのか或いはイタリアなのか、云々と話題が広がっていくのであろう。

3.話題が決まったら、自分のペースで作文を書き、パトナーに送る。手で書こうと言いたいけれど、パトナーに送るのにメールが便利だし、私の場合は、下手な字で相手を困らせたくないという心配もある。直すのは手間がかからないように、ワープロの行間を広くしてから書こう。

4.パトナーの作文をもらったら、それを読み、プリントし、手で直してあげる。直し方はパトナーなの能力レベルにもよるけれど、単なる間違いだけではなく、不自然なところ、意味がはっきりしないところ、文章のスタイルが揺れるところ、慣用句を入れても良いところ等と、文章の粗いところもマークし、可能であれば直してあげよう。分かっていなさそうなルールや原則も短く説明する。パトナーの気持ちを悪くしたくないと遠慮するのは当然だが、言語能力の発達が目標だと忘れず、素直な意見をなるべく優しく書いてあげれば良いのであろう。

5.喫茶店でも待ち合わせ、お茶をしながら、直された作文を交換し、作文のどの部分を何のために調整したのか、説明し合う。できれば、ゆっくりと文法ポイントや成句の使い方を説明したいけれど、説明できない場合は、「とにかく、こんな風に書けばいいんだ」と伝えればよいのである。勿論、内容についての感想も好きなだけ話せるし、お互いに語学の難しさを嘆いたり笑ったりしても良い。最後に次回の話題を二人で決める。

こういうやりとりを繰り返していけば、文章力がお互いに高まるのではなかと思える。頻度は自由だが、月に一回か二回という程度なら、無理にならないのであろう。二人とも暇が取れれば、一週間に三回というような短期特訓もできる。長続きするのが理想だが、二人組みの一人が忙しくなったり、やる気を失せたりすれば、パトナーの付き合いを一時的に休止してもいいし、終わりにでもしてもいいのである。つまり、作文を書き、それを直してもらうことは、学習の一種とはいえ、楽しくないとやる価値がないので、ストレスの元にならないように、無理しないほうがよいのである。それから、一人だけの作文パトナーに従うより、色々な相手の文章躾けを受けた方が良かろう。それで視野を広くすれば、パトナー達の個人的な好みと一般的な作法の区別が段々明らかになってくるのであろう。

作文パトナーになる為の資格は、何一つもありません。相手が習いたい言語のネイティブスピーカーであれば、必要なのは、パトナーの作文を丁寧に直してあげたいという気持ちと、自分の作文を素直に直して貰いたいという気持ちしかありません。

2007年5月10日木曜日

「ちょっとお聞きしたいんですが・・・」

大学の頃、半年間日本に留学してきましたが、それ以来はアメリカ在住で、日本に行くのは、一年おきに家内の実家を訪れるというパターンになっています。ですから、日本語について何か聞きたいことができると、聞き手の候補者は家内だけです。これは、家内にとって、とんでもない災難なのです。例えば、

(家内は夕飯のおかずをジャージャー炒めている最中)

「あのね、ちょっと聞いていいかな。」

(家内は興味深そうに炒め物を見つめる)「・・・・・・」

「本を読んでいて、気づいたんだけれど、「直ちに」と「即座に」の違いがよく分からないみたい。その二つはどう整理すればいいのかな・・・」

「・・・・・・・」

或いは、

(家内はテレビを見ている。私はその傍で読書。)

「ね、この漢字はなんって読むんだっけ?」

「ん?」(まだテレビを観ている)

「この漢字、読みは?」

「あ、漢字か、それは「くじら」と読むよ。」

「なんだ、くじらかぁ。そういえば、Moby Dickの日本語版だから、文脈から分かるべきだったな、そりゃ。」

「・・・・・・」

(5分後)「ね、この漢字は何と読む?」

「ん?」(家内の視線がテレビから離れない)

「漢字だよ!か・ん・じ!」

(家内の目はちらっと私の差し出すページに移る。「あ、それは又「くじら」だよ。」

「・・・・・・」

我が家では、こういう芝居が何度も繰り返されているので、家内の「知りたがる夫恐怖症」はどんなものなのか、容易に想像がつくでしょう。そうして私も家内に影響されて、「日本人は質問されたくない」というイメージを無意識に覚えてしまったのです。

それで、久しぶりに日本に行くと、必ず「うゎ~、日本人がいっぱいいるっ!さすが日本だな!どんな質問でも、答えてもらえそう・・・もしかして、絶叫すれば、僕の声が届く範囲以内に国語の先生さえいるかもしれん」というような単純なことを考えてしまうのですが、いざという時に、やはり聞きにくくて遠慮してしまいます。

したがって、この方の経験について読ませていただき、「そっか、迷惑にならない場合もあるんだ」とありがたく思いました。もし家内が彼の傍に座っていたら、話が別だったかもしれません。(というより、キュートな彼だったなら、喜んで質問に答えていたのでしょう。)とにかく、こういう日本語救急依頼の難点は、質問されてもいい方も、質問されたくない方も同じように見えてしまうということが明らかになりました。

この問題を改善するのは簡単なことでしょう。我々外国人でもわかるような合図で、質問を受けてくれる日本人の方々を示せば良いのであろう。方法はいくらでもあるのだが、各電車に、一台の客車を「質問ゾーン」に指定するのが最適に思えます。この質問ゾーンは無論、我々外国人も認めなくてはならないのだから、質問車に乗る日本人は、「質問されるかも」と覚悟できるでけではなく、逆に色々な外国語について質問する機会を得る訳です。(これで別の問題が生じるのですが、質問車に乗っている間、外国人が自分達の母国の国歌を静かに歌え続ければ分かりやすくなると思います。)

質問車の外側に、巨大なクェスチョンマークを沢山貼り付ければ、乗客の皆様が間違わないし、何だか楽しい雰囲気が醸し出されるのでしょう。わくわくしません?今日、質問車に乗ってみよう―か―なっ!と通勤時間がオモシロクなってくるのでしょう。

この提案を国土交通省に提出したいのですが、手順がよくわかりません。それでね、読者様、ちょっとお聞きしたいのですが・・・

2007年5月9日水曜日

文学翻訳への挑戦

外国語を勉強していると、その言語を使うことが無論大切です。単語や文法形を覚えるのにそれは確かに必要なことですが、私の場合は、練習したり、ドリルを繰り返したりするだけだと、どうも物足りなく感じます。それで、勉強したくなるように、何か他の事のついでに日本語を使うチャンスを常に探しています。最近、その他の「何か」は翻訳です。

翻訳といっても、種類がいっぱいあります。プロの翻訳者の商売が経済情報や特許に集中しているそうですが、夢想家の私はどうしてもふらりと文学の方に傾いてしまうのです。長編小説を訳すのが夢ですが、まだ経験が浅いし、もっと勉強しなければいけないので、今のところでは、何か短編を英語にして、雑誌かジャーナルに発表できたらいいな、と思っております。そして、文学的な翻訳の準備と練習に取り掛かっています。

その練習の一つは、静岡州の世界翻訳コンクールでした。第六回目の締め切りは2006年の12月だったので、去年その応募の翻訳にこだわっていました。このコンクールの応募者は、指定された三つの短編と三つのエッセイから一つずつ選んで翻訳します。静岡県の政府が主催しているコンクールなので、静岡出身や静岡住居の作家の作品がコンクールの課題になります。

自信満々と飛び込んだのですが、やはり、難しかったですね。指定された図書から、古井由吉の「椋鳥」と河上徹太郎の「詩人との邂逅」を選びました。「椋鳥」の方は、暗い運命を持つ三角関係を細かく描写した作品で、その性的な内容で少しためらったけれど、古井の滑らかな文章を英語で再現するのが面白そうなチャレンジだったから、挑戦してみました。「詩人との邂逅」は、中原中也やフランスの象徴派詩人についての解説兼思い出話で、非常に勉強になると思い、選択しました。

この二つの翻訳を一ヶ月間位で完成できるだろうと考えましたが、それは大間違いでした。手をかけなかった日も多かったし、一ヶ月が二ヶ月になり、あという間に半年になり、締め切りがもうすぐでした。大慌てで最後のチェックを入れて、提出するしかなかったです。実は、翻訳に励んでいた最中は少し自信がでてきましたが、応募原稿の入った封筒を郵便に出した時、まるで封筒が手から離れた瞬間から、その自信が粉々に崩壊してしまいました。すぐに、「こうすりゃよかったんだなぁ」と後悔した語句がいくつでもありました。それでも、大きな一仕事ができたのも嬉しかったです。青春の波乱を乗り越え、社会人になり、一人暮らしを始める子供の親の気持ちに似たものかもしれませんね。

とにかく、勝つ見込みはまったくないのですが、このコンクールに応募してよかったと今でも思っています。静岡県が日本文学を諸国に伝えて、理解してもらいたいという目標は立派だと思います。しかも、翻訳者の役割をこんな風に認めて、報酬まで出して下さるのも大変感謝しています。

ところで、日本人もこのコンクールに参加できるし、翻訳言語が三つ程ありますので、外国語を勉強している日本人も挑戦してみませんか?第七回目の応募情報が2008年に発表されると思います。ちなみに、第六回目の応募結果はこちらです。

2007年5月8日火曜日

語学者の味方・・・電子道具

日本語を勉強し始めた頃は、日本語に接触できるところは教室だけでした。或いは、日本語ジャーナルを購入し、一人で勉強することぐらいはできたかもしれません。しかし、それをわざわざ注文し、輸送の期間を待ち、一人で読む気にはなれませんでしたね。

無論、現在の状況は随分違います。インターネットを通して、言語学習もできるし、新聞も読めるし、国際交流もできます。心細く日本語ジャーナルを前にしていた昔に比べると雲泥の相違ですね。それだけでもありがたいですが、電子道具も驚くほど役に立つのです。最近はまっているのは・・・ニンテンドーDS!これは意外な発見でした。確かに、私はテレビゲームと共に育ったその最初の世代の一人なのですが、青春の頃から、殆ど手をつけていなかったのです。昔持っていたのは、携帯インベーダーゲームやMerlinでした。ビー、ブー、ブルブルブル、と単純な音をたて、電池を沢山食っていたこの類のゲームを思い出すと、懐かしい気持ちに襲われるけれど、同時にゲームの見事な進歩に感心してしまいます。

ところが、去年友人の家でDSに出合いました。その友人は確かに「脳を鍛える!」というようなソフトにはまり、私にもやらせてくれました。それが面白かったけれど、私の成績はあまりにも悪かったし、その後すぐに忘れてしまいました。しかし、暫くすると、DSで漢字の勉強も出来ると知り、興味が沸いてきました。皆様はもうご存知だと思いますが、DSの魅力は、スタイラスで漢字を書くことができます。私は典型的なワープロばかなので、 その欠点をかなり気にしていました。 (と言っても、自ら勉強することさえしていませんでした。)それで、いいチャンスを見計らい、購入してしまいました。勿論、ゲーム機だけでは勉強できないので、学習ソフトをいくつか比べ、結局「なぞって覚える!大人の漢字練習」にしました。

このソフトでは、漢字の勉強が非常に楽しいのです。高いレベルで始めるのは怖かったので、ゲームに個人情報を求められる時、歳を八歳にしてしまいました。それで、常用漢字を一年生レベルから復習させられました。各漢字の音訓読みも書き方も練習し、20字ごとに進級テストをします。それで、全ての進級テストに合格すれば、卒業テストに挑戦できます。これはもっと難しくて、その級の漢字から25の読み問題と25の書き問題がでてきます。得点が80%以上であれば、次の級の練習ができるようになります。

これはなかなかいい。自分が進んでいる!という楽しみがあるかるでしょう。やはり、語学の難しいところは、自分の上達を具体的に感じられないことなのでしょう。却って、「最近、ちっとも進んでいないなぁ・・・」と考えたりするので、勉強するムードにはとてもなれませんね。だから、ゲームソフトでありながら、「合格したね!おめでとう!」と言われると、やる気がますます出てきます。

が、それだけじゃないんですよ~。合格するときは「合」という字が成績表にはんこされますが、満点の場合は、はんこが「合」ではなく、「」という赤い字なのです。こんな工夫が私に効くのは恥ずかしいですが、やはり真実です。日本語を話したり、書いたりしていることは、失敗をすること方々同じですからね。言葉が口から出て行き、ちょうど引き戻せなくなったその瞬間にでも、「あ、大変!文法が間違っているんだ!」と悟ることもよくあります。だから、自分の日本語が上等だと、とても感じられません。従って、「貴方はとても優秀なんです」という敬意のこめた「」がいっぱい並んでいるところを見ていると、涙がでそうになるぐらいです。幼稚だな、と笑われてもいい。結果的に、六週間の間、漢字力が大幅に上がってきたような気がするので、この「なぞって覚える」に出合えてよかったです。これからも利用していきたいと思います。

これ以外にも色々なよさそうな学習ソフトがあるらしいので、現在のゲームは昔のと違って、単なるおもちゃとは言い切れませんね。

2007年5月7日月曜日

リンク集を載せました

これは私の初めてのブログなので、内容を決めて載せるのは少々時間がかかるかもしれません。せめて、今は日本語学習に関するサイトをリンクします。是非よかったら、ご覧下さい。

これはどんなブログでしょうか?

読んでくださる方々が聞きそうな質問ですが、私もやはり書きながら少しずつ分かってくることになるでしょう。しかし、今のところでは、文章を書く練習が主です。毎日日本語で会話しているし、結構小説も読んでいるけれど、文章を書くことはほとんどありません。そして、メールなどを打つといっても、それはちゃんとした文章にならないでしょう。こういうパターンで日本語を使っていると、段々とバランスが取れていない、ということが気になってきます。だから、自分の日本語のバランスは目標の一つでしょう。

それで、もしどなたかが読んで下さるとしたら、私の日本語の間違っているところや不自然なところを直して頂けたら、とても嬉しいです。直してもらうチャンスが少ないので、どんなアドバイスでも大切にします。それから、皆様の感想や語学の経験なども是非聞きたいです。

短くても、毎日何か書こうという積もりですから、これが日記のようなものになるでしょう。どうやってここまで日本語を勉強してきたのか、今どんな勉強法をつかっているのか、どんな難点で困っているのか、どんな本を読み、それについてどう思っているのか、と色々なことを書いていこうと思っています。語学が殆どでしょうが、たまには毎日のさまざまの出来事についても書かせて頂こうとも思っています。

こんな著者ですが、どうか宜しくお願いいたします。