2007年5月30日水曜日

もらい物


この間、遠い所へ引っ越す知人に沢山のもらい物をしてきました。ある小さめな収納棚を安く売ってくれることになっており、それを取りに行っていたのです。引越しの直前でアパートの中に段ボール箱やきれいに整理された家庭用品があっちこっちに置いてあります。そして、例の棚を車に積み込み、最後の挨拶を述べようとした時に、思いがけない攻撃を受けてしまいました。

「これもど~ぞ!」

「じゃねぇ、これも要らない?」

「これが余っているので、おまけにしてあげる・・・」

と誠にタクサンの物をくれました。種類は様々です。食料品(新品も使いかけ)、チビのフラフープ、小さなプラスチック製の収納棚、風鈴、等と山ほどもらってしまいました。

こういう時は、家内は遠慮しがちですが、私は大抵受けることにします。私達は夫婦として性格的に共通点が多い方だと思いますが、これが数少ない相違点の一つなのでしょう。

とは言えても、家内の気持ちがわからない訳でもありません。他人が引っ越す際に要らないと判断する物は、家には必要だと思えないものです。もらってしまえば、家も今度引っ越す時に、誰かに押し付けなくてはいけない羽目になってしまうのです。もし、実際に使えそうな物があれば、それだけをもらい、その他はお断りしましょう。この考え方は理屈がちゃんっと通っていることは私も承知します。

しかし、いくら引っ越しは冷静に考えるべきだとは言え、いざという時に引っ越す本人もその周りの仲間も様々な感情に引っ張られてしまうのです。引っ越す人は人生の次章を迎える喜びが主でしょうが、さようならという苦い言葉もあるし、「このアパーとに溜まってきたガラクタをどうにか処分しなくちゃ!」という慌しい現実も迫ってきます。引っ越しは肉体的にも疲れますが、精神的にもぐったりするのはこのせいなのでしょう。

今日の本人も何だかハイな感じで自分のアパートを素早く飛び回っていました。 そのハイ感と処分の必要感が一緒になっているらしく、これも、これも、是非こ~れも、と促してくるのです。大きすぎて家に置く場所がない物は仕方なく断りましたが、それ以外は受けてしまったのです。こういう時は「僕にとってこれはガラクタに過ぎない」という雰囲気を起こしてはいけないような気がします。本人は自分の物を処分しなくてはいけないのですが、「価値のない物」としてゴミ箱に放り込むことが切な過ぎる。最後まで、誰か受けてくれる使い手を捜してしまうのです。その人に自分の「価値のある物」を与える方が精神的に楽なのです。

相手のそういう精神的要求に応えたいところもありますが、私はそんなに単純に優しいことばかり考える人間ではありません。正直にいうと、私は「ただ」という言葉に非常に弱いのです。

(考えてみると、遺伝子が関わっているかもしれません。私の家族は昔スコットランドから北米に渡ってきたのですが、現在でも、スコットランドという国名を「Scotch」という形容詞に変えると、「けち」という意味にもなります。)

とにかく、引っ越す本人も興奮してしまい、私も興奮してしまい、家内が悪い物でも食べたような表情になり、車が荷物でいっぱいになりました。

家に帰ると、車から引っ張り出して置く場所を決めることは一仕事でした。そして、プラスチック製の収納棚をよく見ると、なんとホコリがいっぱいついています。ホコリの溜まり方は家庭によって違うだろうけれど、私の目には三年分ぐらいは溜まっています。石の上にも三年は大変良いことだそうですが、プラスチック棚の上にも三年分のホコリは望ましくない発見でした。

そして、この棚の周りにはプラスチック格子が付いているので、その穴を一つ一つ拭かなくてはならないのです。三十分前に目を星にして「この人が処分したがっているから、もらった方が実は優しいんだ」と考えていた自分がいやになってしまうのです。

時間をかけて棚を丁寧に拭いていると、少し気を取り直しました。この棚は机の側に置けば、今までごた混ぜになっていた鉛筆や書類を整理してくれそうなので、もらってよかったと改めて思えました。三年後にホコリが溜まっていないように、毎日使いましょう。

2007年5月28日月曜日

日本語の一人称代名詞


前回は英語の「I」と「Me」の違いを主張していましたが、この二つは誰も使っています。日本語の一人称代名詞の場合は無論違います。日本語の勉強を大学で始めて、直ぐに「私」に出会いました。「私イコールI。ふむふむ、なるほど。よーし、次の単語は?」と簡単に受け取りました。そして、次の学期に、「僕」も教わりました。直ぐに使い始めた人もクラスにいましたが、私はもう「私」に慣れていたし、「私」は字としてバランスがとれていて、書きやすいので、わざわざ「僕」を使い出すことは面倒くさく感じました。それから、「僕」は男性専用だと言われたので、使ってしまえば、自分がマッチョマンに見えるのではないか、というためらいもありました。(私は普通の男性なのですが、マッチョマンではないことは明らかだと思います。)「僕」にはそういう雰囲気がしないことは今充分解っていますが、日本語の一年生には男専用の一人称代名詞は実に不思議な現象で、どう解釈すればいいのかまるで分かりませんでした。場合によって一人称代名詞を選ぶことは多分教わったと思いますが、私は「私」から離れませんでした。何しろ、日本語を話す所は教室しかなかったので、「場合」はいつも同じでした。

留学の頃は始めて生きた日本語に囲まれ、「オレ」、「アタシ」、「ワシ」という言葉から日本語の一人称代名詞の幅広さを少しずつ意識してきました。しかし、私を泊めてくれたホストファミリーに、「私」以外の一人称代名詞を使わせてもらえませんでした。「僕」を口にしてみると、若い人が使うと失礼だと言われました。その挙句、留学グループの他のメンバーが「僕」や「オレ」を楽しそうに使っていたところ、自分は「私」に縛り付けられた気分になりつつあったのです。今から考えてみると、あのホストファミリーは何故「僕」を好まなかったのか、よく分かりません。

アメリカに帰えり、その翌年大学で日本語を学ぶ時代が終わり、数年の日本語バキュームが過ぎました。ところが、家内と結婚し、日本語を再び知り合うチャンスが訪れました。最初の頃は「私」がまだ口に残っていましたが、「僕禁止」というムードがもう消えていたので、「私」がそろそろ「僕」に変わりました。

その頃から今までの十数年間、「僕」を使い続けてきました。たまたまフォーマルな場面に出会うと、「私」に戻りますが、それ以外は専ら「僕」です。「オレ」は殆ど使っていません。プンプン起こっていると、うっかり口にすることもありますが、それは一年に一回程度でしょうか。基本的に私には似合わない言葉だと思います。同じように、「お前」をめったに使いません。(たまに使ってもその対象は家の犬に決まっています。)

そんなに「僕」に馴染んできたので、このブログを始めて、「私」がつい出てきた時は少し驚きました。何が普通に使われているのか知りたくて、早速日本人のブログを幾つか見学しました。しかし、「呟き系」もあれば、「エッセイ系」もあり、あらゆる一人称代名詞が使われています。それで、自分の立場を考えることにしました。これは私の初めてのブログ経験で皆様の前で「呟く」ことはどうも出来なさそうでした。それに、普段使っている日本語よりはもう少し綺麗で礼儀正しい日本語にしようと思ったのです。結局、私は「私」でいいように思えました。

でも、頂いたコメントのレスを書くと、また「僕」になってしまいます。何故か、一人の相手に対して書くと、自分の会話的な声が出てくるのです。

このように、自分が自然に口にする一人称代名詞を使うようになりましたが、それは日本人の耳にも自然に聞こえるかどうかは解りません。しかも、日本人はどのくらい意識して人称代名詞を選んでいるかも解りません。

やはり、日本語の一人称代名詞にどんなに使い慣れても、我輩は外国人である。

2007年5月27日日曜日

人称代名詞とMe

知人に日本語のことを話していると、日本語に一人称代名詞が複数だと知らせれば、大抵驚いてもらえます。「なんで一つで済まないんだろう?いやぁ、日本語って難しそうな言語だな」という風に不思議がる人が多いです。確かに英語の感覚には日本語のこの特徴が案外だと言えるでしょう。英語だと、文法的な役割によって「I」か「Me」を使いますが、この二つは基本的に同じ言葉なのです。

といっても、感情的には僅かな違いがあるのでしょう。「Me」を間違えて主語として使えば、ちょっとした耳障りになります。例えば、

“Me and Billy is goin’ to the moving picture show, paw.”
(親父よ、Billyと映画館に行ってくるぜ)

というと、話し手が何十年前の田舎人に聞こえてしまいます。そのため、「Me」を下品な代名詞として避ける人もいるのです。ところが、「I」を「Me」の代わりに入れてしまうと、その逆効果が起こってしまいます。

“Whomever lost that file, it certainly was not I.”
(どな~たがそのファイルを無くしたにしろ、ワ・タ・ク・シでないことは確かですとも。)

この英文の話し手は、教育されていないのに、教育された印象を作ろうとしています。しかし、ちょっと努力しすぎなのです。丁寧に話したいから、文法を犠牲者にしてもいい、という態度です。丁寧に話すことは立派なのですが、文法をそう簡単に犠牲する人間が次の瞬間に仲間を犠牲者にするのではないか、という疑いを招くのです。丁寧すぎて、冷たい言葉遣いなのです。

従って、英語の一人称代名詞が基本的に同じなのに、アメリカには「I」と「Me」の感情的な影響を受け、その文法的な使い方を見落とす人が少なくありません。

この結論にたどり着くと、この投稿に日本語の人称代名詞について書こうとしていたことに気づきます。(話題をそう簡単に犠牲する人間が・・・)

とにかく、日本語の話は今度にとっておきますが、最後に間違えた例文を直しましょう。

“Me and Billy is goin’ to the moving picture show, paw.” (元の文)
“Billy and I are going to the moving picture show, paw.”(正確な文法)
“Billy and I are going to the movies, Dad.”(昔の田舎なまり削除)

“Whomever lost that file, it certainly was not I.” (元の文)
“Whoever lost that file, it certainly was not me.” (正確な文法)
“I’m not sure who lost that file, but I don’t think it was me” (刺々しくないバージョン)

2007年5月25日金曜日

チビとの討論

チビの部屋がひどく散らかっています。どういう風に散らかっているかといいますと、本におもちゃ、まだきれいな洋服に汚れた洋服、鉛筆にビー玉、という感じで、そのど真ん中に逆様になっている洗濯籠がお人形のお茶会のテーブルになっています。つまり、「この部屋には床があるのか」という状態です。自分からなかなか片付けようとしないチビに、「パパが手伝うから今日こそ部屋の掃除をしよう」と誘ってみました。しかし、この作戦が全然効きませんでした。

ほら、チビがこっちを向きません。「いいよ、パパ。別に片付けなくたって平気だよ。」

「パパとママは平気じゃないよ。歩けないほど散らかっているよ。」

「それは大丈夫。私なら歩けるよ。」

「でもね、このままだと寝る時におやすみを言いに来れないよ。それでもいいのかい?」

「ふん、そうか。じゃ、通路を作ってあげる。」

「・・・・・・」

「じゃ、Lちゃんの家に遊びに行くのね。」

「ち、ちょっと待てよ。やっぱり片付けようよ。」

討論に勝てなかった私には、「やりなさい」という言葉、即ち親の究極兵器を持ち出すしかありませんでした。しかし、渋々と片付け始めるチビが努力しません。本を拾っても、ぱらぱらとページをめくるだけです。何回か注意したけれど、チビの動きが少しも早まってきません。このままだと、私が全部やってしまいそうなのです。つまり、チビの勝利。これはいけません。

「じゃ、暫く自分でやってみて。片付いたら遊びに行ってもいいよ」と私は何気なく言い捨てて、部屋を出ます。

隣の部屋でメールチェックしていると、物音は全くしません。ちょっと不気味になってくるくらいです。しかし、数分後、

「パパ、ちょっと昼寝していい?」と聞いてくるのです。赤ちゃんの頃にも昼寝を殆どしなかったチビにしては高いレベルの抵抗です。

「昼寝? ま、いいよ。疲れているならしょうがないね。」

チビがもぞもぞと毛布の下に潜り込み、部屋が又静まり返ります。

沈黙が二分、三分流れていきます。まさか、本当に寝るとは・・・。

「パパ、おなかがへんだよ~」

やっぱり。

様子を見にいくと、全然苦しくなさそうなチビが毛布に絡まっています。「おなかが痛い」はチビの最後の戦略でした。この程度の抵抗力をつい尊敬してしまいます。でも、チビの茶色い目は今私の顔を探しています。

何よりも、チビは一人でいることが嫌なのです。こんなベッタリチビには兄弟がいないことが申し訳なく感じてしまいます。

暫くおでこを撫でてもらったら、チビがほっとしたみたいです。今のうちに動き出さなくちゃ。

「どう?二人で片付けない?」

「うん、二人でやろう、パパ。」

部屋が片付いてくると、チビが突然「片付けるって楽しいね」と言い出すのです。それは彼女の今の気持ちですけれど、何度も演じてきたこの劇がこれからも何度も演じられるのでしょう。

いつか、チビが「一人でもいいから片付けない」と決める日がくるかもしれません。

又は、自分から部屋の掃除をしたくなる日がくるかもしれません。

いろいろな可能性がこもった将来が訪れるまでは、こういう部屋掃除討論を大切にしましょう。

2007年5月24日木曜日

生きた日本語への橋

最初の投稿にも述べましたが、日本語を直して頂けると実に嬉しくなります。怪しいと思っていた表現がやはりそうだった時もあれば、全然疑っていなかった言葉が間違っている時もありますから、言語能力をつけるのにネイティブの方々に助けて頂くことが非常に大切なのです。従って、注意される事は私にとって決して不愉快な事ではありません。却って、どんなに小さな事でもとても感謝します。

それだけではありません。ある意味で、直されることは自分の存在を認めて頂くことなのです。これが学習に関係ないと思われるでしょうが、アメリカで日本語を使っていると、いくら本を読んだり、衛星放送でNHKを観たりしても、家でしか使えない日本語が家のプライベートな言語に感じてしまうのです。それは確かに便利で楽しい面もあるけれど、学習者としてある孤独感を覚える時もあります。これは実存主義者が自由詩に延々語るアンニュイというような大げさなことではなく、「どうせ勉強してきたんだから、日本語を使うチャンスがもっとあったら」というごく普通の気持ちです。そういう意味でこのブログを通して、投稿を読んで頂くと、その言語的な孤独感が飛んでいきます。皆様とコミュニケーションができることは私にとってとても嬉しいことです。ありがとうございます。

こういうことを考えていたら、感謝の言葉を書きたくなったのです。これからもどうぞ宜しくお願いします。

2007年5月23日水曜日

久しぶりの漢字練習

昨日は幾つかの小さな用事を済ませに出かけ、そのついでに喫茶店に行って昼食をとりながら勉強してきました。持って行った本は、漢字と語彙のクイズを25ずつまとめている日本語能力試験の練習問題集です。最近はブログの投稿を書いたり、小説を読んだりしているので、この本を手にするのは本当に久しぶりでした。実は、どこまで進んだのかさえ覚えていなかったので、漢字の最後のクイズを受けることにしました。

この本は自分の学習のために買ったのに、本の中にクイズの回答を書くことはとても出来ないのです。これは何故かというと、話が自分の小学生時代になってしまうのです。アメリカの小学校は同じ教科書を何年間も使い続けているので、自分の幼い頃はよく「大切な教科書を汚すな!」と言われてきたのです。学年の最初の日に教科書を配られ、表紙の内側に名前を記入していました。新しい教科書でなければ、その前の持ち主の名前も書いてあるので、よく知っている人や頭のよさそうな人が使っていたことが分かると、この本にはいい縁があって嬉しい!という気持ちでした。しかし、学年の終わりに、先生に教科書を返すときは、先生は本に何のダメージもないことを確認してから受け取るのです。少し古びていてもいいけれど、ひどく汚れたり、ページが破れたりする場合は大きな騒ぎになってしまうのです。私の本をチェックしている先生の顔をみていると、どうしてもドキドキしてしまっていたのです。そんな少年時代を送った私は現在、練習問題に答えるときは、回答を別紙に書くことにしています。そう考えると、悲しいような、懐かしいような複雑な気持ちになります。子供は、大人の気づかないところにも大きな影響を受けている、ということですね。

話を戻しますが、久しぶりの漢字練習がうまくいったかと思ったのですが、解答用紙を見たら、やはりミスがいくつもありました。

しかし、食事の方はよかったです。店の新メニューのサーモンサラダにしてみました。サーモンも美味しく、サラダのレタスとインゲンも新鮮でした。ただ一つ残念なのは、そのドレッシングは少々甘すぎました。アメリカだと、何でも甘くなってしまうのはどうしてでしょう。今度から、ドレッシングを横に添えるように頼みましょう。

今日の投稿はいろいろな話を混ぜて書いたのですが、ま、そんな一日でした。喫茶店にカメラを持っていかなかったのですが、家に帰ってから写真をとりました。

2007年5月22日火曜日

ある時期のレモネード

外国語の学習として、音楽がよく用いられているのですが、私はそれを体験した場所は、日本語の教室でなくて、家の居間でした。

お子さんのいる方はすぐに分かると思いますが、子供がテレビに興味を示すようになってから、家中が同じ声、同じ台詞、同じ音楽でいっぱいになるのです。子供は一旦ある番組にはまると、何度も何度も観たがってしまうのです。

親にとってこれは子育ての節目の一つと言えるでしょう。今まで子供の幸せと生長を考えて作り上げた家の環境が、段々と子供の意志に影響されてくるのです。勿論、親が子供に見せる番組を選ぶことが出来ますが、子供がその中から一つにはまれば、親の辛抱の限界が試されてしまうのです。

アメリカの子供向けテレビ番組には、親を悩ますキャラクターが幾つかいます。その最凶最悪な犯人は、バーニーという紫と緑のフォームラバーでできた恐竜なのです。彼が主役を務めるBarney and Friendsの内容は見事にポジティブで教養的なので、バーニーを禁止し、もっと暴力的な番組を勧めることは考えられません。しかし「I hate Barney」をGoogleに入力すれば、アメリカの親たちの恨みの深さに圧倒されてしまうのです。この現象がいいことであれ、悪いことであれ、事実なのです。

家がこういう段階についたら、やはり私も家内も同じような辛い思いをしました。家内の第一の敵はCaillou(カイユー)というカナダ人の男の子でした。確かに「I hate Caillou」でネット探索をすれば、バーニーほどではないのですが、大した収穫が返ってきます。彼のニヤニヤ声が家の中に響くや、家内の顔がこわばってしまうのですが、幸い、家のチビのCaillouマニアは長続きしませんでした。

英語の慣用句ですけれど、「酸っぱいレモンを渡されたら、甘いレモネードを作れ」と言います。Caillouの間抜けな笑い声で苦しんでいる家内にはそんな楽観的な決まり文句を言い聞かせる訳にはいかなかったし、正直に言うと私自身もそんなに楽観的な物の見方をしていなかったけれど、チビの日本語テレビが自分の語学チャンスだとなんとなく感じたのです。

運良く友達からしまじろうのビデオを何本か頂いていたので、家の親子日本語タイムができました。そういうビデオの簡単な単語とその音楽の繰り返しを通して、日本語の基本的なリズムに少し馴染むことができたかもしれません。きっと、人間の音楽感と記憶が脳みそのどこかで結ばれているのでしょう。今でも、忘れたくても、しまじろうとビデオのお姉さんのデュエットが忘れられません。


夏だ  (夏だ!)

キラキラキラキラ  (キラキラキラキラ)

お日様と  (お日様と)

ふわふわふわふわ  (ふわふわふわふわ)

白い雲  (白い雲)

だいだいだいだい  (だいだいだいだい)

だい~す・き・な~  (大好きな!)

なつなつなつなつ  (なつなつなつなつ)

なつ~がきた~  (夏が来た!)


大抵、私がいっしょに踊ったり歌ったりしていましたが、チビはどうしても真剣な顔で画面をみつめるだけです。チビはみみりんのファンになったのですが、端役のキャラクターに同情せずにはいられない私はとりっぴいを応援するようになりました。

勿論、しまじろうを観たい日もあれば、観たくない日もありました。しかし、毎日チビと観ている内に、しまじろうと彼の仲間が私達の「日本語育て」の一部となったのです。