
持ちをもっと素直に綴りたいと思っています。でもこのブログをあまりにも重くてウェットなものにしたくありません。ユーモアを適度に取り入れつつ自分のことを書いてみましょう。ま、その辺りのバランスは試行錯誤して見つける必要があるかもしれませんね。
ずいぶん前のことですが、自分が22歳ぐらいの時にフランス人の女の子にタロット占いをしてもらったことがあります。女の子は15歳でしたが、勘が強くて占いが上手でした。僕は占いのことをあまり(というか、全く)信じていなかったけれど、せっかくのチャンスですし、まぁやってみるかという軽い気持ちでお願いしました。女の子の指示でタロットカードを一枚ずつ引き、自分の前に二列に並べました。そして最初に出たのはこの挿絵の通りThe Paladin、つまり信仰のために闘う騎士でした。
僕はそのカードを見て相当嬉しかったです。なぜなら、その騎士は勇ましくて絶対に負けそうになかったからです。決して強くなかった自分はそういう存在に憧れていました。自分の運命を見たと感じ、僕は喜びました。でも女の子の解説は意外なものでした。「これは喜ぶべきカードではないのよ。騎士は強く見えるかもしれないけど、実は傷つかないために鎧や盾の後ろに隠れているの。それはあなたの運命じゃなくて、あなたの現在だよ」と。
なるほど。僕は傷つくのが怖いのでした。女の子の言葉になんだか不思議な力がこもっており、聞いた瞬間にそうだとつい思ってしまいました。そして自分の履歴を振り返ってみると、女の子のいうことは正しいと認めざるを得ませんでした。生まれ育った家庭には良いところもたくさんありましたが、家庭内のコミュニケーションは表面的なところに留まる傾向があり、自分の弱さや不安を打ち明けるスキルを身につけることなく僕は成人してしまいました。強い感情は当時の僕にとって怖いものであり、それを扱うのは爆弾を抱えるような危険な真似だと感じていました。ネガティブな感情を表現できなかった自分は逆に自分の中にそれを抑え込もうとしましたが、それはいうまでもなく健全な処理法ではありません。捨てるべき爆弾を呑みこむようなことです。確かに当時の自分は、些細なことであっても誰かと喧嘩になりそうな時はいつもお腹が痛くなったものです。
その頃から今までの30年近くの間に、いろいろな変化がありました。少しずつではありますが、僕は盾を捨て鎧を脱ぐことができるようになり、部分的にせよ傷つきやすい無防備の自分を出せるようになったのではないかと思います。でも長い道のりでした。日本語学習と同様にとぼとぼというのろいペースで進んできました。もちろん今は決してパーフェクトではありませんが、ずいぶん変わってきたということは事実だと思います。自分が過剰な反応をしなくなったのか感情を溜めなくなったのか、今ならよっぽど大きなことでない限りお腹は痛くなりません。
僕はなぜ変わってきたのかなと考えることがありますが、一つの直接的な要因を見つけることができません。時間が経つだけで変わった気もしますし、瞑想実践が大きく関わったという気もします。そしてタロット占いの体験自体が僕の考え方を影響したと思います。つまり、憧れていた男性らしい強さだけでは人間として不十分だということ、そして硬い甲羅に覆われた心よりは柔らかくてオープンな心を持った方がいいということに気づいたのは、タロット占いが一つのきっかけだったのではないでしょうか。また、教職に就いたのはよかったかもしれません。学生とのコミュニケーションを通して自分の人間らしさを少しずつ表現できるようになったと思います。せめて教員になったばかりの25年前の自分と今の自分のコミュニケーション・スタイルはだいぶ違うようです。そして言うまでもなく、親になると自分の気持ちを気にする余裕がなくなります。我が子を守るためならば言葉がつい出てきます。
結局、すごいことをしたと思えません。むしろどの人生にでもあるようなごく普通な変化だと思います。でもこのような平凡なことは人生の醍醐味でもあります。女の子の解説を聞かなくても今の地点に到着できたかもしれませんが、占いは確かに進むべき方向を指してくれる道しるべとなりました。