2020年6月2日火曜日

鎧と盾を考え直した時

Knight of swords, Thelema Tarot, Lo Scarabeo Tarot Card Decks, Tarot Cards, Tarot Significado, Knight Sword, Knight Of Swords, Tarot Learning, Oracle Tarot, Tarot Card Meanings, Tarot Spreads前回の記事に自分が幸せであることを隠さずに書きました。これからも、自分の考えや気
持ちをもっと素直に綴りたいと思っています。でもこのブログをあまりにも重くてウェットなものにしたくありません。ユーモアを適度に取り入れつつ自分のことを書いてみましょう。ま、その辺りのバランスは試行錯誤して見つける必要があるかもしれませんね。

ずいぶん前のことですが、自分が22歳ぐらいの時にフランス人の女の子にタロット占いをしてもらったことがあります。女の子は15歳でしたが、勘が強くて占いが上手でした。僕は占いのことをあまり(というか、全く)信じていなかったけれど、せっかくのチャンスですし、まぁやってみるかという軽い気持ちでお願いしました。女の子の指示でタロットカードを一枚ずつ引き、自分の前に二列に並べました。そして最初に出たのはこの挿絵の通りThe Paladin、つまり信仰のために闘う騎士でした。

僕はそのカードを見て相当嬉しかったです。なぜなら、その騎士は勇ましくて絶対に負けそうになかったからです。決して強くなかった自分はそういう存在に憧れていました。自分の運命を見たと感じ、僕は喜びました。でも女の子の解説は意外なものでした。「これは喜ぶべきカードではないのよ。騎士は強く見えるかもしれないけど、実は傷つかないために鎧や盾の後ろに隠れているの。それはあなたの運命じゃなくて、あなたの現在だよ」と。

なるほど。僕は傷つくのが怖いのでした。女の子の言葉になんだか不思議な力がこもっており、聞いた瞬間にそうだとつい思ってしまいました。そして自分の履歴を振り返ってみると、女の子のいうことは正しいと認めざるを得ませんでした。生まれ育った家庭には良いところもたくさんありましたが、家庭内のコミュニケーションは表面的なところに留まる傾向があり、自分の弱さや不安を打ち明けるスキルを身につけることなく僕は成人してしまいました。強い感情は当時の僕にとって怖いものであり、それを扱うのは爆弾を抱えるような危険な真似だと感じていました。ネガティブな感情を表現できなかった自分は逆に自分の中にそれを抑え込もうとしましたが、それはいうまでもなく健全な処理法ではありません。捨てるべき爆弾を呑みこむようなことです。確かに当時の自分は、些細なことであっても誰かと喧嘩になりそうな時はいつもお腹が痛くなったものです。

その頃から今までの30年近くの間に、いろいろな変化がありました。少しずつではありますが、僕は盾を捨て鎧を脱ぐことができるようになり、部分的にせよ傷つきやすい無防備の自分を出せるようになったのではないかと思います。でも長い道のりでした。日本語学習と同様にとぼとぼというのろいペースで進んできました。もちろん今は決してパーフェクトではありませんが、ずいぶん変わってきたということは事実だと思います。自分が過剰な反応をしなくなったのか感情を溜めなくなったのか、今ならよっぽど大きなことでない限りお腹は痛くなりません。

僕はなぜ変わってきたのかなと考えることがありますが、一つの直接的な要因を見つけることができません。時間が経つだけで変わった気もしますし、瞑想実践が大きく関わったという気もします。そしてタロット占いの体験自体が僕の考え方を影響したと思います。つまり、憧れていた男性らしい強さだけでは人間として不十分だということ、そして硬い甲羅に覆われた心よりは柔らかくてオープンな心を持った方がいいということに気づいたのは、タロット占いが一つのきっかけだったのではないでしょうか。また、教職に就いたのはよかったかもしれません。学生とのコミュニケーションを通して自分の人間らしさを少しずつ表現できるようになったと思います。せめて教員になったばかりの25年前の自分と今の自分のコミュニケーション・スタイルはだいぶ違うようです。そして言うまでもなく、親になると自分の気持ちを気にする余裕がなくなります。我が子を守るためならば言葉がつい出てきます。

結局、すごいことをしたと思えません。むしろどの人生にでもあるようなごく普通な変化だと思います。でもこのような平凡なことは人生の醍醐味でもあります。女の子の解説を聞かなくても今の地点に到着できたかもしれませんが、占いは確かに進むべき方向を指してくれる道しるべとなりました。

2020年5月7日木曜日

コロナの最中の幸せ

前の投稿から間がずいぶん空いてしまいましたね。皆さん、お元気でお過ごしでしょうか。Toboは相変わらず元気にしております。

世の中の全てがコロナに染まり、まるで違う世界になっているような気がしてなりません。マスク、2メートルの間隔、アルコール除菌スプレー、テレワークなどがこの世界の土台をなしているようです。いつの間にかそれが私たちの新しいリアリティとなりました。

それは必要なことではありますが、このコロナの新世界は多くの矛盾を含んでいると思います。一つには、マスクを持っていない人がマスクを探すために街に出ることです。また、スーパーでレジに並んでいると床にテープが貼ってあり、前の客さんと安全な距離を保つようになっているのに、買い物を続けている客さんが絶えずにその間を縫っており、テープの意味は至って不明です。

対策を取らなくてもいいというスタンスではないですが、私たちは安全を保っているのか安全を演じているのかがよく分からず、ちょっと不思議な心境になるだけです。

普段なら、その不思議な心境を見つめたくなり、それをこの記事のテーマにしていたのでしょう。でも今のToboはその線をたどる気にはなれません。

なぜなら、Toboは幸せすぎるからです。これ、言ってしまっていいものでしょうか。日本では自分の幸せを大きな声で発表しないのが礼儀のようですし、郷におる僕は郷に従えと言われそうです。まぁ、妥協策として皆さんの耳元にささやくことにしましょう。Toboは幸せです。とても、とても幸せです。

この発言はこのブログにおいて大きな進展です。今まで自分の本音をここまではっきりと表現したことがなかったかもしれません。

今まで書いていた内容は嘘だったわけではありません。全ては本当のことです。でも娘とのこと以外、自分の表層しかこのブログに綴りませんでした。その下に潜む様々な感情を無視して書きました。あるいは場合によってその感情から逃げるために書いていたと言えるでしょう。先ほど安全を演じる我々を冷やかしましたが、僕もこのブログでときどき演技をしていたことを否めません。

「じゃなぜそんなに幸せなの?」と聞かれそうですが、その説明は人のプライバシーに関わるため省かせていただきます。でももし僕を幸せにしてくれた人がこの言葉を読むことがあるのなら、下記のことを知ってほしいです。

本音を出す勇気を与えてくれた君に感謝しているよ。

2019年9月4日水曜日

カツオ君との再会

かつおの刺身米国滞在の一年間でいろいろな課題にぶつかりました。アメリカ人の運転マナーの酷さから人間関係のあり方の違いまで、よく考えさせられました。場合によってアメリカってオープンでいい国だなと思ったり、あるいは日本人のしとやかさはやっぱりいいよなと考え直したりしました。最初に来日を検討して迷っていたころと同様に、国に優劣をつけることは難しいのだと実感しました。

でも。和食がいいです。終止符。

アメリカの日本料理屋は行ってみたけれど、一軒のお店以外は惨敗でした。へんてこりんな巻き寿司や油まみれでフニャフニャの天ぷらがほとんどでした。

自分で調理しようと思いアジア系のスーパーにも行ってみました。アジア各国の食料品がずらっと並び、何時間も面白く過ごせる立派なスーパーはあったけれど、そこにあった日本の食料品は調味料ぐらいでした。出汁とみりんが手に入っても、美味しい魚がなければ何も始まりません。切り干し大根やひじきの煮物だけで一年間過ごせる訳ではないのです。

あるとき、高級スーパーで刺身グレードのマグロを買ってきました。魚売りのおじさんはニコニコしていて、魚の味にどれだけ気をつけているかを自慢そうに語ってくれました。僕たちは舞い上がりさっそく買ってきたのですが、一口目で家内と目が合いました。不味すぎて喉を通りません。それ以後は日本料理を諦めました。

だから先週日本に帰った時から、待望の和食が解禁となりました。伊丹空港は最近立派に改装され、美味しいレストランがたくさんできました。日本到着後の最初の食事はそこの蕎麦屋でした。天ざるにしたら蕎麦はコシが程よく、天ぷらはサクッとしていて上品な食感でした。長い旅の後だったからこそ、心が和むような味でした。

でも刺身好きの僕が最も感動したのは、月曜日に地元スーパーで買ってきたカツオでした。数分前までは海で泳いでいただろうと思うような新鮮さ。口に入れるだけで溶けるような柔らかさ。絶妙な味。カツオ君と再会できて本当に良かったです。

2019年9月3日火曜日

日本の湿気、恐るべし

一年間をアメリカで過ごした僕は、びっくりするほど日本のことを忘れました。

バスの路線も家庭ゴミを出す日も綺麗に忘れてしまいました。

また、不在の一年にいろいろな変化がありました。

大好きなカフェが閉店したことを発見し、仕方なく訪れたマックでなんと注文したものをテーブルまで運んでもらいました。マックのテーブルサービスはどうでもいいことですが、閉店となったカフェの独創的な「旅する定食」がもう食べられないのはちょっとした打撃です。北欧風のシナモンロールも良かったなぁと感傷的になるくらい素敵なお店でした。

このように思いがけぬ変化はありましたが、関西の夏が蒸し暑いことには変化はなかったようです。永遠に変わらないことだろうと思います。

クーラー王国のアメリカに慣れていた僕は伊丹空港から出るなり、凄まじい湿気に襲われました。大げさな表現かもしれませんが、湿気に攻撃性が感じられます。

帰宅してクーラーをかけても、何だか物足りません。お店に行っても同じです。

電車に弱冷房車があるように、日本は弱冷房国だと言えるかもしれません。

だからと言ってアメリカが良くて日本が良くないという訳ではありません。問題はむしろアメリカで自然の空気を吸わなくなった僕にあるのでしょう。

自分のクーラー依存症を認めます。でも秋が待ち遠しいです。

写真は2年前に六甲山で撮ったものです。夏の湿気から逃げたい人にお勧めの場所です。


2019年9月1日日曜日

再び来日

この間の投稿に、来日したという話をしました。

実は先週の木曜日に再び来日しました。

仕事の都合で去年の8月から一年間アメリカで過ごすことになりました。

その間、家族にいろんなことがあり、少しは大変でしたが、だからこそ家族の近くに居ることができて良かったです。

でも一年があっという間に経ってしまい、木曜日に日本に戻り(帰り?)ました。

最初の日、一年ぶりの日本は何だかアンリアルな感じがしました。

ゴミの分別やバスに乗ることなど、初めてやっている気がして不思議でした。

でもそのうち、脳の奥深くで小さなスイッチが日本モード切り替えったようです。

今、アメリカで過ごした時間の方が夢っぽくて少しアンリアルに感じられます。どちらの国にいても、浦島太郎になるしかないようです。

写真はアメリカで出会ったヤギです。人懐っこくて可愛いいけれど、僕のTシャツの袖を食べようとしました。


2019年8月22日木曜日

シニア恋愛の話

ちょっと寄り道ではありますが、僕の来日が中止になりそうになった時の話をします。

人生の大きな岐路に立たされ、悩みながら歩むべき道を決めるのは柔軟性のある、中年の世代だと思います。例外ももちろんありますが、僕たちが日本に引っ越すべきかどうかはその好例だったのでしょう。

僕と家内は日本とアメリカをいろんな局面から比較し、日本に住むメリットとディメリットをリストアップし、それを見つめつつ悩んだりはしましたが、結局日本に住んでみようということで合意しました。

でもうちの娘は8歳で来日することについて自分の意見を持つことができず、ついて行くしかありませんでした。

また、僕の両親はちょうどそのころ、老人住居施設に引っ越すことを決めていました。彼らは僕たちが海外に行ってしまうのは寂しかったと思いますが、「俺たち大丈夫だからお前らは日本に行きなさい」と励ましてくれました。僕たちの計画を阻止したくなかったようです。

Toboたちを上下で挟む世代はこれで尽きただろうと思われそうですが、実はもう一人(というか、一匹)の関係者がおりました。それは愛犬のジンジャー(別称:ジンノスケ)でした。ジンジャーを動物保護施設からもらったため、彼女の年齢ははっきり分かりませんが、13歳以上だったということは確かです。つまり、老犬でした。

もっと若い犬なら貰い手が見つかりやすいですが、老犬を貰いたがる家庭は滅多にありません。そして環境の全く違う日本に連れて行くことは非現実的でした。生きて検疫所から出てくることさえ想像できませんでした。僕は既に仕事のオファーを承諾していましたが、だんだんと恐ろしくなってきました。ジンジャーの将来が心配でなりませんでした。獣医さんは安楽死を提案しましたが、僕はそれが絶対にイヤでした。仕事を辞退するしかないのかなと少しずつ思うようになりました。

でも可能性が低くても道はあるかもしれないし、できることはしようと思いました。ジンジャーの情報を貰い手を求めるペットの掲示板に載せました。ずっと反響はなかったのでもうダメだろうと諦めましたが、来日を取りやめる話を始めようかと悩んでいた時期に救いの手が伸ばされてきました。ジンジャーに会ってみたいという連絡です。

メッセージをくれたEさんはクランシーという老犬を飼っていました。最近まで二匹でしたが、一匹が歳で亡くなったそうです。クランシーは目がほとんど見えず、相棒が亡くなるまではいつも彼の後について、導いてもらいながら活動していたそうです。相棒の支えを奪われたクランシーは外出する勇気も元気もなくなっていました。それで飼い主は相棒に代わる「犬用盲導犬」を求めてジンジャーに着目したのです。仔犬だとあと10何年飼わないといけないし、ジンジャーぐらいの歳の犬がちょうどいいということでした。

ジンジャーを連れて様子を見に行ったところ、とても良い環境でした。フェンスに囲まれた広い庭があり、犬が自由に出入りできるようになっていました。クランシーとジンジャーはすぐに仲良くなり、庭で遊び始めました。何だかラブラブな雰囲気です。

心配な点はなかったわけではありません。Eさんは猫も飼っており、その餌を一日中出していたようです。食いしん坊のジンジャーはそれを食い尽くして問題を起こさないのかな、あるいはもっと大変なことに猫を攻撃するのではないかと心配しました。でもEさんはジンジャーの欲張りを気にしなかったし、猫たちはジンジャーのことを怖がりませんでした。ジンジャーは猫に対してちょっと複雑な気持ちがあるようで、逃げる猫を追いかけるけれど、逃げない猫と仲良くする方針です。

話が順調に決まり、日本へ発つ少し前にジンジャーをEさんたちに引き渡しました。ジンジャーにまた会えるだろうと思ったのでそんなに悲しくなかったです。

僕たちが日本に着いてからEさんが時々連絡をくれました。彼女の話によりますと、クランシーとジンジャーはシニアの恋愛をしていたそうです。僕たちはジンジャーをずっと一匹で飼っていたので、雄犬の側にいるようになったジンジャーは嬉しかったのではないでしょうか。そして彼女もクランシーに自信と程よい刺激を与えたようでよかったなと思います。

Eさんは良心的な飼い主でしたが、ジンジャーの寿命はその後あまり長くありませんでした。腎不全と尿道炎で手術が必要でしたが、獣医さんの判断ではジンジャーは麻酔に耐えられなさそうでした。Eさんは結局安楽死させることにしました。僕が嫌がっていた結果ではありますが、ジンジャーはクランシーとの時間を与えられたことを嬉しく思います。

柔軟性は結局シニアたちにもあるみたいですね。両親は僕が側にいなくても大丈夫でしたし、ジンジャーもボイフレンドと遊んだりキャットフードを食い荒らしたりできる、気楽な晩年を手に入れました。そう考えるとこれからの僕にも希望があるような気がします。

2019年8月16日金曜日

来日して10年


2000年ごろから日本語を熱心に勉強してきた僕は、日本で暮らしてみたい気持ちはずっとありました。せっかく身につけた日本語力をもっと鍛えたかったし、文芸翻訳に関心に持つ僕は日本で暮らしてみないとうまく訳せないだろうなという懸念もありました。そして何よりも日本の人々と直接触れ合いたかったです。でも日本に引っ越すことは雲の上のような話で実際そうなると思ってもいませんでした。アメリカに仕事も家もありそして家族の事情もいろいろとあり、来日するなんて非現実的なことに感じられました。

ところが、2008年にアメリカの経済が悪くなったころにチャンスがやってまいりました。僕も家内も仕事を変えてもいいかもということになったので、これからどうしようといつもよりオープンマインドで将来のことを二人で考えてみたりしました。そして東京での仕事の公募をネット検索で気づいたときに、まぁ応募してみるかという軽い気持ちで履歴書を送くりました。その話は案外早く決まり、2009年2月に日本に引っ越すことになりました。

家も車も所有物の9割を売り払って、航空会社が認める重量ギリギリのスーツケースを引っ張って空港に出向きました。娘は8歳で僕は39歳でした。家内の年齢を非公開にしておきます。

これからその後の出来事を少しずつ綴っていきたいと思います。

写真は一昨年の夏休みに撮ったものです。2週間ほどアメリカで過ごして日本に戻ったら、富士山が雲からお顔を出して挨拶してくれました。何だか心強い光景でした。